てんあお

サスペリアのてんあおのレビュー・感想・評価

サスペリア(2018年製作の映画)
4.9
2019.1.19に「青山シアター」のオンライン試写に参加。

以下は「青山シアター」の『サスペリア』(予告編)に掲載したものを(加筆・修正して)掲載したものである。※なお公開前のため、個別の場面描写に関する記載は極力排除させてもらった。後日、それらについての加筆も行う予定。

幸運にもいち早くリメイク版の内容を観ることが出来たわけだが、正直、凄いものを観た衝撃で、暫く考え込んでしまった。

単純に痛いものの映像を見せられたショックから、近過去における魔女の実在性を血肉化するという意味での、設定の巧みさやイメージ製作の衝撃まで、様々なダメージがある。ただはっきり言えるのは、その痛みの先に、価値観の異なる「美しさ」が確かに拡がっている。それは単に 、鮮血の吹き荒れるさまの衝撃だけを言っているのではない。いわば、敢えて「地獄」へ向かう者の、清々しい純粋さについてである。

ああ、痛いだろうけれどもう一度、劇場で観直したい。

サスペリアの、魔女の物語をリメイクするという企画は、以前から聞いていたけれど、実際形になったものを観てみると、これは本家のダリオ・アルジェントが物言いを付けたくなるのも無理はないと思った。アプローチが異なるのである。

簡単に言えば、邪は邪として印象づけるのか、あるいは物語を表裏の区別なく真正面から描き込むのか。ダリオ・アルジェントは、邪を邪として、強烈な色彩と、影に潜むものの蠢きと襲撃の落差を、センセーショナルなシチュエーションによって、表現してみせた。ただし、邪なるものは、邪なる存在理由を取り上げられたまま、その猛威を震うだけだった。

観て貰えればはっきりすることだが、ルカ・グァダニーノが製作した今作は、旧三部作でも取り上げられた、魔女の母なる存在が、次なる宿り木を探して暗躍する物語の、新たな一篇である。そこに魔女が、存在する理由を、加えるのか、或いは「認知する」のかどうかが今回の出発点だと思う。

近年では、ロバート・エガースの『ウィッチ』という印象的な魔女についての作品があったけれども、あれはまだ魔女という存在を、邪なもの、という側面から動かそうとはしていなかった。そういう意味ではあれもまた、旧態の作風から抜け出してはいなかった。

むしろ対象は画かれる「対象」は異なるが、私の敬愛するニール・ジョーダンの『ビザンチウム』が本作のアプローチに近く、存在していると思う。

彼女たちの存在理由について、余計な感傷を持ちたくないのであれば、この新作を受容する必要はないと思う。けれど、バカ正直にも「血肉化」されてしまった物語を、映画好きホラー好きなら、受け入れない理由はない、とも思う。

最後に、とかく演出と映像表現に、注目が集まり過ぎる作品ではあると思うが、そのなかで、異なる側面の2人の人物を演じた、ティルダ・スウィントンの、演技というか身体性の驚異さだけでも、堪能して欲しい。例えば壮年の女性としてそこにあるということ、対して老いた男性として存在し振る舞うということ。からだの見えかた、その特殊メイクだけでは越えられないであろう違いを。『オルランド』で衝撃を与えた彼女を、単なるスター女優として認識していたことの甘さを、これも痛いほど思い知ると思う。彼女も、ある意味畏怖すべき、魔女のような当代随一の演技者である。
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