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悪は存在しないのGyGのレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.0
「悪は存在しない」 
大胆なタイトルです。

本作の存在を知ったのは、ベネチア国際映画祭で賞をとったとの報道が契機です。
悪は映画の普遍的キーノートであり、悪が描かれていない映画は映画ではないと喝破する映画関係者もいることから、そのアンチテーゼとなる「悪は存在しない」で打って出るのは勇気のいることであり、それだけの自信があったのだと思います。

悪つながりで思い出すのは、無辜の人間を無残にも殺してしまう映画”スリー・ビルボード(TB) ”、”冷血”です。
本作の概要を知るにつれ、ベネチアの審査員もこれらの映画を連想したかもしれません。

視点を変えます。
本作の導入部
山、森、木、山が立ち竝ぶ風景を足早に撮る長尺のシーン、ここで黒澤明デルス・ウザーラを連想。


巧が操るチェンソー、斧、ネコ。
チェンソーは全体を輪切りしてから一気に落とすプロスタイル、斧はいつも真芯を貫き、2,30キロはありそうな木をまっすぐにネコで運ぶ。
完璧な森の住人であることが認識されます。

住民、グランピング場開発計画
そこから住民たちの生活の描写、開発計画、話し合いへと進む。
登場人物は善人ばかり。悪っぽく映るコンサルでも、請け負った仕事を期間内に仕上げるため要領よく指示しているだけ。
いったい彼のどこに不都合がある?
あるはずはない、周りにいっぱいいる普通の人間だから。

もう少し詳細に眺めると、開発計画に全住民が反対する中、巧だけは中立、住民に対しても中立の立場をとります。
ウドンを食べた開発側社員が味を褒め「身体も温まった」といった時、店主や周囲にいた住民はそれは味じゃないとあざ笑うがごとく指摘したが、巧はその埒外にいた。

さらによくみると巧は動植物の実態を五体に叩き込んでるかのごとく接し、確信的な物腰で人に語る。「棒読み」で語る。森と人とのテリトリーを守ろうとするデルスがそうだったように。
これらのことから、巧は森の住人ではなく、そこで暮らす人とあらゆる生き物との調整者として描いていることがわかる。

しかし終幕はストーリーとして語ることを放棄しています。

見る側には、バランスを壊すものは裁断するという巧の意思だけを手掛かりにして、先行きを想像するしかありません。監督は手伝ってくれないのです!

いったい花と高橋はどうなったのか?

本作冒頭、英文タイトルのモーションロゴはevil, exist, does, notの順にスクリーンに並べて行きます。
この提示方法は”Evil exist, does't it?”のアナグラムだと考えられます。

英文タイトルを読んだ人は最初、” 悪は存在する”と認識していたのに、ロゴが静止したときには"悪は存在しない"と変化するのが自然でしょう。そのようにタイポを打ち込んだのだから。

はてさて、いったいどっちなのか?

くどいですが、監督は見る側に何かを託したのです。
私が判断しないかぎり、本作は完結しない映画!

よって、依るべき根拠が少なく傍証的になるとのエクスキューズを前置して、かつ監督は正解を持っているとして、私見を述べます。

TBで何回も画面に映った”A Good Man Is Hard to Find(善人はなかなかいない)”では無辜の家族全員殺され、この本を愛読する警察署長は自殺します。
実話であるトルーマン・カポーティの冷血も理由なく残酷に殺されます。
毎年多発する銃の乱射事件。

そんな環境で暮らす人からみれば「悪は存在する」のです。
従って二人は人とケモノによって裁断された、そう考えて不思議はありません。

しかし、花も高橋も生きている。と私は思います。
何故か? ここは日本だからです。
日本語タイトル「悪は存在しない」
根拠はそれだけ、その他の理屈はありません。

以上総じて、本作は、ススキは見たといい露は見ぬという藪の中、羅生門的なアンビギュイティを楽しむ映画、あるいは犯人探しのサスペンス映画、この両視点が併存する面白い作品だった、このように思います。

極私的感想
・タバコ吸いシーン、できれば三浦透子の男バージョンでみたかった。
・娘の迎え時間をよく忘れるという設定は、他のエレメントと比べ異質感あり。
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