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オッペンハイマーのGyGのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
3.7
思いつくままの感想です。

本作で浮かび上がる各人の性格などについて
ロバート・オッペンハイマー
①理をわきまえない人にひそむ偏狭さを嫌悪するが、合理的な考え方にはそれに見合った対応ができる。
・未対面のストローズに対し、その姓にある黙字を奇異とし発音にも難癖をつけるシーンは最初からそりがあわぬことを示唆しており、商業界、軍務、行政官を渡り歩く姿をみるにつけ、その感を強めていった。
・一方、真正の合理主義者であるグローヴスに対しては、すぐに盟友関係を築くことができ、情や打算に頼らない高度な人間関係を育てあげた。裏返していえば、この二人がいなければマンハッタン計画は頓挫しただろう。
②深くかつ幅広い教養があり、それをベースに必要に応じて的確な判断・行動ができる。
③ヘヴィースモーカー、食べ物嗜好などに快楽主義的要素あり。
④科学者であると同時に技術者に要求される能力にも長けている。

レズリー・グローヴス
グローヴスは真値(ゼロ)を求め、ロバートは近似値(ほぼゼロ)でよしとする会話は、両者の基点の違いを明瞭に表している。この違いを二人で共有できたからこそ、意見が異なる時には基点に立ち返り、時には譲り時には押し付け、マンハッタン計画を実装化していったと伺える。
ただ、マンハッタン計画の肝が共有できない限りノーベル賞級の頭脳をもつロバートに押し付けることは不可能である。明晰怜悧な軍人であったと思われる。
(日本軍上層部はエンティティを欠いた作戦を頑迷に押し付けるだけであり、彼我の差を改めて感じさせられた)

エドワード・テラー
彼の計算式には指数関数が入り込んでいると分かり周囲が驚く場面がある。無限連鎖反応の出来、大気への引火、地球破局の恐れ。
この事態を収拾したのは、'ほぼ'の扱いに当代筆頭格の知見をもつロバートだろう。彼がテラーを信用しなくなった一端がここにあるのかもしれない。

トルーマン大統領 
原爆の責任は、「ロバートよ、それはお前ではなく大統領たる自分にある」という一見政治家らしい言辞の裏には、途方もない傲岸さが潜んでいることに気付けない大統領。
先ずは”世界戦争の早期終結”のため努力したロバート達にねぎらいの言葉をかけるのが大統領の基本的な務め・礼儀であるが、本作ではそんなシーンはなく、二人は真っ向から対立した姿として収められている。
国のためとはいえ血で手を汚したことに忸怩たる思いをもつロバートからすれば、人殺しを自慢するに等しいトルーマンの言動、内省のなさに対し、生身の人として憤怒し、大統領に背を向けたのだと私は思う。
それに対し大統領は二度と来るなと罵声を浴びせ、二人は別れた。
覚悟をもって厳粛に執り行われるべき国事が、醜い諍いで終わったことを示すシーンである。
その撮り方はノーランの良心であり、本作一番の訴求シーンとし世界に提示した、そのように思う。


映画技法について
ドキュメンタリーや伝記的な映画を制作する場合、最近はエモさを排除する方向に来た感はあるが、ナラティブ性の扱いは難しい。
本作では時系列をシャッフルすることで、一意の解釈に陥ることを回避している。しかも読み取り方を複雑にしている。
私の場合はロバートとグローヴスのツイストペア物語として読み取った。ジーンやストローズに焦点を当てればまた違った見方ができるかもしれない。


今後の課題について
本作ではヒロシマ・ナガサキが描かれてないと声高にいえば教条的に過ぎるだろう。

今日的戦争観における大きなイシューは無差別殺戮の合法性・倫理性の問題であり、WWⅡ以前には存在した平和vs戦争に係る一般均衡※を壊滅させたゲンバク、無差別殺戮兵器である。
また、それに関わった組織・人間の問題や罪深さも、人類が共有しているとは言えない状況にある。

先ずはヒロシマ・ナガサキの惨禍からイラン・イラク戦争、今行われているウクライナ、ガザ等における殺戮をみて、なぜ人間はかくも無惨に理不尽に殺されるものなのか、そこを真っ向から示さないかぎり、まともな共通認識は得られるはずもない。
そこでは女性の皮膚が熱線で焼け剥がれ飛んでいくシーンのみで理不尽さを描くことはもはや不可能であろう。

これらは誰かが撮るべき今後の課題である。本作をみてこのように思った。

※計量始点すら定まらない問題を論理的に解決するのは不可能、無差別殺戮兵器の無条件廃絶が唯一の解決策
それまでの間サドンデスの蓋然性は常にあり
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