ロッツォ國友

オッペンハイマーのロッツォ國友のレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
5.0
我は"死"なり
世界の破壊者なり



偉大な知識で街を作り上げ、
大きな希望で"装置"を完成させ、
世界を延焼させ続ける男の伝記。
というより、神話というべきか。


なんというか、「"原爆の父"を描いた映画」に対して期待しうる映像化の努力と倫理的な責任を全て果たした、非常に自罰的な自伝映画ですね。
最後の方で書きますが、とても理想的な作品だったと思っています。


燃え盛る炎をバックに「プロメテウスの火」の引用から始まる本作。
のっけからシビれる。

原爆って、プロメテウスが持ち込んだ中でも最悪の"火"だったんじゃないかな。

本作のオッペンハイマー博士は、この引用文通りに縛り付けられ罰せられる訳だが、彼を縛り付けているのは米国でも政府でもFBIでもなく、彼自身の良心だ。



作品全体としては、
「原爆の完成前」

「原爆の完成後」
の二部構成のような形で捉えることができる。

ストローズ事件の顛末や、白黒とカラーを使い分けた表現のあたりは……わたしが勉強が得意じゃない関係もあって読み取り切れなかった。
1回目の鑑賞記録としては、スルーさせていただこうかな。
ノーラン作品はやっぱ情報展開があまりにも速い…



まず、前半部について。

彼は溢れる物理学への探究心と、純粋な愛国心と正義感で、
「ナチスより先に原子爆弾を完成させる」
という信念の成就を目的とした国家プロジェクトへ身を投じることになる。

割と等身大な若造が、しかしその圧倒的頭脳ゆえに巨大な軍事作戦に取り込まれていく様が極めて自然に描かれている。

彼自身のスタンスは概ね一貫しているが、いつのまにか大変な罪を犯すチームを率いることになっており、嫌々ではないものの兵器そのものに興味津々というわけでもないまま取り込まれてしまったことが(それが史実とイコールでなくとも)納得感のある表現で描かれている。怖い。


また、あまりにも多くの人を殺し過ぎる爆弾を作り上げるにあたり、色々な人物がそれぞれの立場から意見や助言を口にするのだが、これぞまさしく、良くも悪くも原爆をモノにしたアメリカ人の傲慢さが表れた素晴らしいシークエンスだったと思う。

彼らからしてみれば、危険な兵器であるというのは百も承知で、しかし巨悪であるナチスに対抗するためには悪になるしかないんだ、という発想なのだ。

結果的に、人に向かって核を撃ったのは彼らだけなのだが、率先して世界の警察を名乗り出る正義感と傲慢さが滲み出ており、リアリティのある綺麗事としてはかなり説得力がある。


本当に、こういう思考だったんだろう。
戦争はいつ終わるか分からず、自国の兵士が前線で傷ついている。切り札を作らないわけにはいかないじゃないか。
その切り札が最終的に"何"に向けられるのかは、さておき。



人物一人一人の描き分けがいいですね!
名役者をたくさん投入したおかげか、名前はよく覚えてなくても混同しない。顔を見たら「ああ、アイツね」
となる。

キャラも立ってて良いです。
アインシュタイン似てる。


様々な意味で取り返しのつかない最強の爆弾を作っている彼らだが、その研究過程はあまりにも無邪気に、生き生きと描かれており心苦しい。

日夜でかい研究に没頭できて、たぶん給料が良くて、家族とも一緒に住めて、国家に貢献している実感でいっぱい。
楽しくて仕方ないだろうな。


*ここで引用*
<F.M.ドストエフスキー>
『コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、それを発見しつつあった時である。
幸福とは生活における絶え間なき永遠の探求にあるのであって、断じて発見にあるのではない。』

なーんて言葉があるんですけど、まぁこれピッタリですよね。誰も大量殺戮なんかやりたいと思ってなくて、ただただ新しい実験を成功させるための『発見しつつある時』を夢中で追いかけてただけなんですよ。

だから、罪深いのかもしれないんですけど。



そして原爆完成シーン。
心理的に複雑だが、それも踏まえて本当に素晴らしかった。

音楽も超いい。
今や巨匠のルドウィグ・ゴランソン様(なんなんだこの名前)が今回も最高の仕事をしている。

音色もテンポも超怖い。
綱渡りみたいなドキドキ感がある。が、大音量で掛かり続けるとなんか不思議な勇気も湧いてくる。気がする。

高揚感と危機感とが同時に溢れて混ざるような音楽体験だ。

「今、物凄く面白くて、そして多分倫理的に物凄くマズいことをしている」といった感じの弛まぬ心の躍動と動揺とが地響きのようなBGMとなってこみ上げる。

映像はもちろんだが、音響の迫力の面でもIMAXが最適と言えよう。
家に収まるスピーカーじゃダメなんすよ。
みんなで作ったオモチャがこれから20万人を焼き殺すんだから。このテンションじゃなきゃ。


軍が全力で身柄と秘密を守る中、軍事予算が大量について、実際にそれを使いまくって仕事しているわけで、そして他国も同じ土俵で同じことをしているわけで、ロスアラモスに踏み入れた瞬間からはもう立ち止まれない。

やり切るしかない。
そしてやり遂げた瞬間、それは不可逆的な転換点になる。


"理論だけではダメで、やっぱり実験してみなくちゃね"といったニュアンスのシーンが序盤で描かれるが、映画全体・テーマ全体を象徴するシーンであったと思う。

黒板で式を書いても解き明かせない理論があるように、アレは、実際に人を焼いてみない限りその価値が証明されない爆弾なんだよ。


立ち止まれない彼らがアレを完成させた瞬間の、あの炎。
あの光。
あの爆音。
本当におぞましいシーンだ。

不謹慎ではありながら、ココが見たくてこの映画を観に来ている。
その期待を裏切らない完成度。
吐き気をもよおす、人の業。

ここから、オッペンハイマーの眼差しが変わる。




後半部について。
完成した瞬間から、あるいは、憎き日本にリトルボーイとファットマンを投げつけたそれぞれの日から、オッペンハイマーの眼差しは変わってしまう。

心踊るような表情が立ち消え、徐々に陰りが見えてくる。

進むしかない中でベストを尽くして彼は英雄になったが、と同時に、永久に逃れることができない"当事者"になってしまった。
アメリカ中の浮かれた雰囲気に対して彼の鬱屈は暗く、重い。

引き返すポイントなどなかったが、取り返しのつかないことをしてしまった。
それを口に出せる場所も、それを表現できる義理も彼には無い。
そういった意味での一種の「孤独」が、後半部のキモとなっている。



後半部における、彼の精神的な自責自罰の描写は見事と言っていい。

「日本での原爆の悲惨さを描いていない!」などという批判が国内の誰かから上がっていたらしいが、これは事実に反する。
100%間違っていると思う。


彼はあまりに手遅れな良心の呵責に壊れかけている。
顔の輪郭から外が全て歪んでボヤけている映像がしばらく続く。

「原爆投下のシーンがない」というが、これについては描く方がダメだと思う。
なぜなら、それは「原爆の恐ろしさの上限を決めてしまう」からだ。

どんなに恐ろしく描こうとも、どうにかして悍ましく描写しようともそれは空想に過ぎず、何より被害の程度を"決めつける"表現に陥りかねない。

それではダメだ。

黒焦げの死体、20万を超える死者、断片的な情報を元に伝えられる取り返しのつかない過ちの重さを、何でもかんでもホンモノを持ってきて撮ろうとするノーラン作品において
「全く描写しない」
という選択はむしろ重い。


本作にとっての原爆投下シーンとは、謂わばオッペンハイマーにとっての原爆の威力と同義に、
「手に負えない」
ものとして扱われている。

描けず扱えないことそのものを表現し、それをオッペンハイマーに背負わせる。
キロトン表記では表せない、生身の人間を相手に「実験」してみなければ測れない威力は、むしろ描写し切ってはいけないものと言えるので、これは正解だと思っている。



それから、大統領との会談も、短いながらも極めて象徴的でキツいシーンだった。

メソメソと加害者ヅラしてるが買いかぶるな。原爆を落としたのはこの俺、アメリカだ。

最高指導者自らが率先して責任を買って出てくれる優しいセリフ…と捉えられなくもないが(それが彼の仕事の一つでもあるが)、個人的には悪態の意味合いの方が強いように思う。

責任者としてデカくなったつもりだろうが、所詮お前も原爆の起爆装置、部品の一つでしかないんだよと、そういう蔑みの言葉に思えた。


思えば、ロスアラモスに集まったトップ科学者の皆さんも、その家族も、兵士達も、マット・デイモン親分でさえも、一つの部品、一つの原子でしかない。

たくさんの核物質と、起爆装置と、それを制御するすべての仕掛けとが適切に密接に繋がることで初めて凶悪な兵器として完成するのであって、特定の部品だけでそれを成し遂げることはない。

物質の最小の単位を解き明かしてきたのが物理学だが、人類を滅ぼす大火を創り上げた組織も、最小の単位に切り分けていくとただの人間の集まりであることがわかる。

一個一個の原子を集めて原子爆弾。
一人一人の科学者を集めてロスアラモス。
完成物の危険度は、同じくらい。

そういう身も蓋もない現実が、真っ直ぐに描写されている。


オッペンハイマーはオファーされるがままに仕事をし、その結果、人間として真っ当に傷つき鬱屈に苛まれているわけだが、ハタから見れば「原爆を作ったクセに水爆には反対する共産党かぶれの怪しい野郎」に見えるのもまたわかる。

彼の自信の精神的変遷と周囲の懸念と両方に共感できるところがいい。
内も外も本来敵ではないのだが、やはり、巨大な力を前に争いは避けられない。




さて、反戦反核の観点で、或いは、原爆を2発もプレゼントされた被爆国・敗戦国生まれの視点から言わせてもらうなら。

トータルで見るに、少なくともこの映画の表現においては、オッペンハイマーはずっと罪悪感に苛まれながら反省する哀れな男として描かれており、しばしば米国政府のノリに垣間見える
「でも原爆撃ったおかげで戦争終わったし今は発展してるし、結果オーライでしょ?」
みたいな正視に堪え難い開き直りはしていないし、日本や日本の被害に対する軽視も見当たらない。

「バーベンハイマー」の件で炎上した例の連中のような軽率さもない。
そういう感覚の国民が大半であった、というところは語られているけれども、それはあくまで対象物として嫌悪するような描写になっており、また当のオッピーは内心全くそういうテンションにないことがキチンと表現されている。



むしろ、必要性緊急性の薄まる中で原爆を急いで使った米国政府の組織的・人的・思想的な危うさや傲慢さに対する批判的な視点がかなり色濃く反映されているように見える。

オッペンハイマーとは、可哀想な男だ。
まぁ、何も知らずに世界への啓示も兼ねた実験台として焼かれた広島長崎の人々の方が遥かに可哀想なのは当然として、いや、だからこそ、「可哀想のドン底」にすら居させてもらえない彼に、ある意味 居場所はない。

血塗られた不名誉な"原爆の父"なる座に縛り付けられ、ずっと晒されることだろう。

それこそ、プロメテウスのように。



だから。
原爆OKともオッペンハイマーは可哀想だし許してあげようというのでもなく、ただただ彼らのあまりの科学的なレベルの高さと技術に相対する態度の無邪気さ故に、まさしく全ての部品がつながり適切な電圧で通電するように原爆を「完成させる」様が描かれ、成熟した国家が順当に進化すればいつかは必ずこういった"火"を創り上げてしまうのだという耐え難く避け難い事実を突き詰めてくる。

そして、これは好意的に捉えるが、やっぱり大統領が言うように、オッペンハイマー一人で原爆の悲劇を巻き起こしたわけではない。


人類の科学の発展に起こる必然として、研究開発を頑張ってダイナマイトを開発したノーベル博士よろしく、世界を破壊する力を最終的には紡ぎ出してしまうことが極めて冷静且つ克明に描かれている。

ここにおいて、好き嫌いはあるかもしれないが、被爆国・敗戦国目線において、表現の拙さや配慮の無さを感じるような出来ではないと思った。


紛れもなく、悲劇としてよく出来ている。
人々が核兵器に焼かれるのが悲劇なのは言わずもがなとして、"核兵器"という存在が世界を焼かずにいられない様を、その延焼を目の当たりにする作品としてこの上なく丁寧且つ真摯に仕上げられているように思う。

オッペンハイマーという男がとりわけ優れた聖人や神人としてではなく、あくまで一人の普通の人間であることが強調されればされるほど、"原爆を生み出した悲劇"の痛みはより普遍的に受け止められる。



ラストは、"原爆の父"を、タイム誌の表紙にもなった彼を、実際に核発射ボタンを押した国家政府がどう扱うのかまで描いたところで、物語は幕を閉じる。

そして今なお、核兵器は決定的な外交カードとして厳然と存在する。

開発した当初の懸念の通り、世界を焼いたまま、火種をあちこちに転がしながら、たまたまお互いに発射ボタンを押さずにいられた日がひとまず続いている状態だ。
とりあえず、今日までは。


メディアで核の恐ろしさを訴えようが、アインシュタインの反省の手紙を公開しようが、原爆ドームの近くで首脳たちが握手しようが、世界全体が核を永久に放棄することはない。

そういう現在進行形の悲劇を遺すようにして、本作はエンドロールを迎えるのだ。
スッキリできるわけがなかろう。



自罰的な伝記映画にしつつ、永久に残る国際社会の課題としての核を思い出させる作品。
極めて真面目だ。

拍手喝采スタオベマシマシっていうよりは、どちらかというと重い溜息をついてうなだれるような映画体験だが、とても良い作品だった。
これは、5.0点にさせてください。
言うことがありません。

彼の事件、もうちょっと調べてみようかな。
ごっつぁんでした。
ロッツォ國友

ロッツォ國友