ロッツォ國友

ノマドランドのロッツォ國友のレビュー・感想・評価

ノマドランド(2020年製作の映画)
3.8
GAFAに勤めて出来た人脈を広げるお話!!!!!!!!

(……的な言い回しを日常で使ってる奴に気をつけてください皆さま。漏れなくカスです。)



フランシス・マクドーマンドの手のシワがめちゃくちゃイイね……そこにリアリティや凄みがある。
いや。手に限らず、出る人出る人にある"肌のシワ"に語らせている部分が大きい作品と言えるでしょうね。

私の愛する「スリー・ビルボード」で獲ったアカデミー賞授賞式のスピーチで、マクドーマンド様は"私は同業の女優の中で唯一、若作りの整形をしない。だからこういう老いた女性の役は私しかできないのだ。"的なことを話していたけど、本作でもまさにそれが生かされていると思う。

あの"手のシワ"無くして、この作品のリアリティや真摯さは成立し得ない。




本作、何より画面と音楽が美しい。
美しすぎる。ウソみたいだ。

構図も色遣いも冴え渡っていて度肝を抜かれる。
これは「画」で魅せる映画なんだ。

でありながら、本作はあくまで現実に現在進行形で起きている社会問題をド真剣に語るガチの意識高い映画ではあり、画面に現れる美しい虚構と対比するように垣間見える実在の残酷さがより強調されるような作風となっている。


社会問題…ではあるけれど。
もちろん何かしらの悲劇に端を発して、何かしらの「被害」を被って被害者とはなったんだろうが、Nomadそのものは自ら進んで選んだ行き様であり、イヤイヤそういう生活をしているわけではない、というところがミソなんだろうね。

ある意味、パワフル資本主義賛美のライフスタイルを外れても生きられるロールモデルがある程度確立されているのはむしろ豊かさと捉えることもできよう。
生き方の多様性だからね。

本作においても、先輩Nomadからノウハウを授けられる場面が数多くある。
Nomadという生き方の継承が、本作の表現の中枢にある。



エンパイアという街は日本でいう軍艦島なんだね。
全盛期においては盛んな企業活動によって全てを賄える楽園のような場所だったわけだが、それはつまり企業活動が立ち行かなければ全てが崩れ去ることも内包している。

資本主義社会であれば普遍的にある問題だろう。
高度経済成長期の団地とかもまさにそうだし、それこそNomad問題の大きなターニングポイントである、リーマンショック直前の人々の生活状況もその一つのはずだ。


本作の語り口を見るに、Nomadというのはそういった理想的な生活からこぼれてしまった人々が、定住場所を失った人々が新たな居場所として見出した外側の生活様式であることが分かる。

ただ、資本主義の否定…というわけではないんだよね。
YouTubeで人を集めて講演してたおっさんが実に怪しい感じだったけど、別に思想があって荒野で徒党を組んでるとかじゃない。
あくまで、多数派の営みとは距離を置いて外側で暮らしているだけ。



とは言え、ある意味ずっと外にいるわけで、夏も冬も厳しい中で生きるのは只事ではない。
生きるためのアレコレをやっているから生の実感は強いだろうけど、それはそのまま死の予感がより身近であることも意味している。

何も無いが全てが有る荒野の中で、自分という小さな存在を再定義するには優れた環境…かもしれない。


本作のビジュアル的な美しさは、アメリカにおける大自然の荘厳な風景に裏打ちされている。
と同時に、Nomadの心を救い、洗っているのもあの風景なんだろうね。

アメリカの雄大な自然を、資本主義社会によって生み出された超高画質なカメラで捉えている点は、この映画のスタンスそのものを象徴しているような感覚を受ける。



繋がりからあぶれた人々が、それでも繋がりを育みながら生きていく。
みんな根無し草だから、ネチネチするのは無し。
面倒くさかったら、運転して離れたら良い。

社会を外れているような生き様でありながら、人との思い出の品が増えていく煩わしさと温かさがドライに描写されている。


カメラは常に、被写体の目線よりやや下にあり、人と風景を見上げる構図が保たれている。
自然はより大きく映り、人間はより小ささが強調されるようなカメラワークだが、これはNomad達の実感に即した視点かもしれませんな。


また孤独を寒色系の色、人の温もりや人との繋がりを暖色系の色で表現している。
彼女も時折、橙色の灯りの下に入るが馴染まず馴染めず、最終的には青く暗いバンで一人寝ることを"選んでいる"。
やっぱり消去法で追い込まれているんじゃなくて、前向きに、寒色系の世界に進んでいるんだよね。




社会生活をある意味リタイアしたようなポジションは取りつつ、とはいえ完全に社会を断ち切って"外側"に出ることはできないから、結局資本主義の下働きをして日銭を稼ぐことになっているのにはなんだか辛いものがある。

食べ物もガソリンも自給自足ってわけにはいかないし、病気や車の故障といった頻出のアクシデントで簡単に生活が破綻しかねないシビアさが描かれている。

定住者からすれば楽しく気ままに見えているが、当然のことながら不安定さそのものの中に身を置いているわけで、内心は完全な能天気…とはいかない。

自由に全てを移動できるということは、それだけ地盤が脆いということを示している。

遊牧民も開拓者も、自由ではあるにせよヒマではないのだ。



そして本作後半では、主人公ファーンの今後の人生にフォーカスしていく。
中盤で出てくるリンダ様(この作品しか出てなくて役名も役者名も同じって、本物……??)が、ある意味Nomadとして生きた場合の行く末を象徴している。

「アレを見て尚、Nomadを選ぶのか?」

というのが一つのクリフハンガーになっている。やんわりとね。



後半で明確に語られるが、住んでいた場所を離れられないのはむしろファーンの方なんですよね。
楽園のような日々から追い出された時に、その想いを断ち切って「次」を受け入れられた者から定住していっている。
次を選べないから、区切らないからNomadになるのだと、そういった語りになっていた。


ファーンによって引用?される詩は本作が言いたい事をそのまま表したものだ。

全てのものが衰え色褪せ消えていくが、心は詩の中にあり、心象風景は消えない。
というか、消せない。


かつて家から眺めていた荒涼とした大地を、バンから眺めるようになっただけで、ホントに物理的に定住ができないというよりは、やはり「郷愁」が彼女をNomadたらしめているのだと思う。

断ち切らない、区切りをつけないというのがこの人達の故郷のあり方だし、郷愁だし、供養なのだ。



最後を描かないのも、まぁいいね。

定住するの?しないの?
というのが鑑賞者にとって表面的且つ最大の興味になるだろうが、最終的にはどっちに転んでも意味合いが同じになるような表現になっている。

あくまでこれ、
「捨てられなかった自分の家から、郷愁から、遂に自分の意思で離れた」
ことがオチになるわけだ。

"出た"ところまで。
入るかどうかは、別に重要ではないのだよね。



あと、コレは意識的にやっているんだと思うけど、本作ではファーンの人脈は、Amazonでの労働でできた人間関係から繋がっていっているように見える。


現行資本主義社会における頂点的支配者、ゲームの勝利者に与することがNomadとして生きる上でも重要なライフラインになっている…というあたりはちょっと毒の効いた皮肉というかなんというか。

別にAmazonの発展によって生活を奪われたわけじゃないけど、資本主義社会の闘争に疲れた人々の生活すら、資本主義社会の闘争によって勝ち取った枠組みによって支えられているというのはある意味パラドクスのようにも感じられる。

し、Amazon側からするとああいう人々が身を粉にして働く必要性が常に存在するからこそ、国中のどこにでも人の手で梱包された荷物が短期間で行き届くようになっているわけで、搾取というほど攻撃的なものではないにせよ、低賃金労働者の粉骨砕身によってAmazonの"勝利"が更新されていくのにはなんだかモヤモヤした澱みのような感情が芽生えるね。


Amazonがなかったらああいう生活ができないってのもまた事実かもしれないし。
まぁというか、Amazonがかつてのエンパイアの延長線上にいるのは間違いないよね。
うまくいき続けてるだけで、Amazonが倒れたら同じことがもっと大きなスケールで起きる。

ある意味、人々は同心円の薄氷の上に生きている。
しかし今のところは、Nomadに支えられ、Nomadを活かす職場はAmazonってわけですよ。

いいんだか、悪いんだか…w



うん。興味深い映画体験だった。
満足感もかなりある。
淡々とした、薄味の難解映画風……でありながらもかなり分かりやすい描写に終始しているし、社会問題を絡めつつ人間ドラマをドライに描き切っていて素晴らしかった。

アカデミー作品賞だったよね?
こりゃー取りますわな。近年の賞のスタンスからして、ど真ん中な作風と完成度だと思いましたわ。

なんつーか知るキッカケ・考えるキッカケになるし、勉強になりましたわ!
Amazonの野郎!!!!!!
ごっつぁんでした!
ロッツォ國友

ロッツォ國友