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ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれからのYNのレビュー・感想・評価

3.6
なるほど。
とても評判がいいし、どこが評価されているのかもなんとなくわかる。
でも、全体的に詰めが甘くて、図抜けて素敵な映画と言うには何か足りない、そんな感じだった。

良かった点は、セクシャリティの明言やそれ自体をテーマ化することを避けているところ(これがこの映画の本意だろう)、英語(言葉)の達者なアジア人と言葉が下手くそなアメリカ人という関係性の面白さ、またポールが言葉を獲得することによって思考や(より明確な)感情を手に入れるところなど。
言葉は悪者にされることが多いので、言葉を肯定的に描く姿勢は、なんだかとても嬉しかった。

だが、問題はその「言葉」にあった。作中で言葉の扱いが、どうもうまくない。
たとえば、この映画の中で出てきた印象的なフレーズはあるだろうか?わたしは先程見終えたばかりだが思い出せない。
強いて言うなら、「私もヴィム・ヴェンダースは好き。でも剽窃は嫌い」だろうか。
しかし、これもよく考えると、妙な台詞なのだ。
エリーとアスターは共に言葉に深く親しみ、思考の海を遊ぶことを知っていて、それ故に孤独を抱えている。この手紙を受け取ったときに、エリーはとてつもない感動を覚えたはずだ。それは、わたしも覚えた。この返信だけでアスターのことが好きになってしまった。
だが、その前にエリーが送った手紙の内容は明かされていない。そこにヴィム・ヴェンダースの一部が仮に「引用」もしくは「パロディ」されていたとして、それを「剽窃」というだろうか?
ヴェンダース作品は数本しか見ていないため、「引用」に「剽窃」と返すところまでが1セットでパロディなのだったら申し訳ないが、わたしはここで奇妙なひっかかりを覚えた。
「相手がそれをわかるであろう」という期待を込めて書いた出典元がある文章を、受け手がその思惑どおりに受け取ったときに、そこに生じるのは甘美な共犯関係である。引用やパロディは、それをしている事自体が露見することで完結する試みであって、そのような遊びを知っているものは(何か特別な意図がない限り)それを「剽窃」とは呼ばない。

この違和感は結局最後まで作品全体を覆うモヤとして残り続ける。
序盤のエリーとアスターとの丁々発止(かのよう)な手紙のやりとりは、しかしただ抽象的なだけで、具体的な感動を呼び起こす言葉の応酬では、少なくともわたしにとってはなかった。
偉人の名言と並んでテロップで表示されるエリーの台詞ですら、「大胆」というキーワード以外はその時はじめましてのなんの思い入れもない言葉の羅列で、記憶に残らない。言葉を肯定的に描く作品の言葉に心揺さぶられないのは非常に残念だった。

もう一点気になる点があったがネタバレになるかもしれないのでここには記載しない。ラスト近くのあるシーンと、中盤のあるシーンが、やっていることは同じで「問題がある」のに、片やは看過されている、という非対称性が気になった。

冒頭にプラトンの「饗宴」の引用があり、それをアニメーションで表現している時点で、少なくない人は「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」を思い出すと思うし、わざとやってるのかなと思った。The Other Half とセクシャルマイノリティの話だし。しかし、そこから始めてしまったんだと、どうしてもヘドウィグを超えないと新鮮な感動はない。
ヘドウィグ〜は言葉の面で非常に優れた作品だから、それと比べて見劣りしてしまう、というのもハマれない理由としてあったと思う。

これ、言葉の巧みな脚本家でリメイクしてほしいなあ。噂で聞くところによると、作中の中国語も少し違和感があるとかで……言葉、大事にして……
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