小径

ロブスターの小径のレビュー・感想・評価

ロブスター(2015年製作の映画)
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傷、逃亡、そして復讐へ

同監督の次回作「聖なる鹿殺し」スティーブンを演じたコリン・ファレルが本作の主人公デヴィッドを演じている。

明らかな接続の意図を感じる。「聖なる鹿殺し」の考えうる上最悪の結末、手の打ちようのない無力感というのは、恐らく本作に起因している。罪の意識のメタファー、マーティンを暴走させたものの正体が描かれている気がする。


「聖なる鹿殺し」でマーティンはスティーブンに対してあらゆるレベルで執拗に彼と同じ傷をつけようとする。

本作でも、愛を達成するために、同じであることが要求される。そしてそれはとりわけ欠点に焦点があてられる。同じ傷というのが本作品のテーマのひとつ。

その決定的さ、無限さ故、傷を介した繋がりはとても深い。誰もが誰かと真に繋がれることを期待する。しかし当然の事ながら、痛みが伴う。受動的な痛みは生きる上で避けがたい。

しかし能動的に誰かと深い繋がりを得ようとする時、それは相手の傷を自ら進んで引き受けることでもある。いわば痛さを理解していながら、自らに傷をつけることである。それは見方次第で恋愛に自傷行為のような不健全さや自己破綻を見出すことができる。わざと鼻血を出したり、非情なふりをしたり、盲目になろうとしたり、それらの光景には歪み、愛が含みうる異常性の意図を感じないわけにいかない。

デヴィッドの友人は繋がりの代償として、偽りの傷の再現する責任を負い、そのために自分を偽ることで、傷を共有するどころか、自分が損なわれていくのではないか。
恐らく妻も子どもも分かっている。でもそれは口にされてはならない気配がある。

一方で主人公は、心変わりも虚しく、結局は傷を背負う責任から終始逃げ続ける。ホテルから、コミューンから、盲目の彼女から、逃亡する。自分は傷を回避しながら、ただ相手を失望させる。期待させるだけさせて、逃げる。それは彼女の心に映像通り、ぽっかり空いた絶望を与えただろう。
どう足掻いても、彼の心は死ぬまでの100年間、交尾が出来るロブスターになることを望んでいるのだから。

愛の幻影は消えない。彼が逃亡の足を緩めることは許されない。また繰り返すのだろう。

この逃亡は、「聖なる鹿殺し」スティーブの決断を回避する傾向と重なる。
あの作品の徹底的な打ちのめし方は逃亡を繰り返し、深く傷つけられた「彼女」たちの「彼」への復讐としての反動を感じる。
この作品には、惨劇が起こる前の一種の静寂があり、あの悪夢の方へと引き付けられるように、無音の内に近づいている気配がする。

責任を背負おうとも、かつてあった繋がりの幻想は距離を開き、彼らは損なわれ続けるし、背負わないと、酷い復讐が待ち受けている。

そんなような男性的な病の捉え方を二作品から受け止めた。
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