小径

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアの小径のレビュー・感想・評価

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マーティンが私の中にも入り込んでくる
死んでいく気配を確かに感じさせられた

メタファーと現実が結び合わされる過程の質感がねっとりじっとりで最高

作品の中でマーティンが直々にこれはメタファーなんだよって公言してくれたので、メタファーし放題!頭がぐわんぐわんする

どこに原因があって、どこに結果があるか、永遠に錯綜し続ける。逃れられない徹底的な絶望感は「ボーは恐れている」を彷彿とさせる。
それで言うとボーの「ママにとっての正解って何?」そんな頼りない発言がママを絶望させたことと、彼の終始優柔不断な態度(極めつけはぐるぐるバット)は重なる。彼らの結末には近しい方向性がある。その結果彼らは共に宿命に抗えない。責任を負わないこと。男性に期待される責任。
家族が生きるために必要な犠牲と決断。
彼が最後まで決めないから、彼の群れはマーティンに乗っ取られる。マーティンってなんだろう。


マーティンの精神病はスティーブンの抱える心の病であり、ひいては男性的傾向が抱える何か、なのかなと思う。なんと言っても、メタファーの世界だから。

マーティンは、いつまで経ってもけりをつけないスティーブンの宿命的、原理的な部分の燻り?無意識下の反動。もしくは女性からの復讐?



スパゲッティの食べ方の癖が父親に似ていると言われた。何度もぐるぐる執拗に巻いて食べる。でも、実は皆スパゲッティの食べ方は同じだった。

ここ凄くきつくて最高
言葉に含まれうること。スパゲッティのスパイラル、ねちゃねちゃした質感、食べ方の乱暴さがこの映画を凄く象徴してる感じがした。ううってなる。

(このシーンのマーティンのステッカー貰った。流石に呪物)




スティーブンのメタファーの世界における
(息子⇒娘⇒⇒〜⇒妻)
症状の進行の違い要因について

息子の病の進行の早さ。
同性故の同一性と故の敵意が同時に影響している気がする。

息子は同性かつ、血を分けた関係として、スティーブンの分身のような存在。

父不在の中で主が自分であることを分かっている息子。父に憧れ心臓外科を目指す息子。

磁石の同じ極みたいに同一故の反発を起こす。その反発は同一性故に自らを傷つける。


一方母親の進行が極端に遅い。
父が純粋に、最も愛する人でありながら、
血が繋がっていない完全な他人であり、性によって隔てられた距離が限りなく遠いことが同時に影響している。

遠くて近い、近くて遠い、そんな矛盾した現実を頭にうかべるのは疲労する。

娘息子が目から血を流して死んでしまう世界線において、妻は永遠に死ななかったんだろうなと思う。つまりスティーブンが群れのあるじとして生きてる状態で、妻が生きることは娘、息子、共に何かしらの形での死を回避できないこと意味しているんだろうな。メタファーとして。



運命、性の遠さという点で、同監督「哀れなるものたち」と類似するテーマ。デジャブだなと思うアイテムや状況が結構出てくる。設定もお医者様関連だし。)

そんな中、性の視点でこんなにも映画としてのジャンルが違うことに驚いた。

哀れなるものたちがSFロマンティックコメディなのに対して、この作品がサイコホラーなの面白い。ファニーな感じでヤギの脳を移植されることもサイコホラーに思うけれど。


そういうジャンル差は主人公の性別による視点の特性を、構成を通した大枠で再現しているのだと思う。

哀れなるものたち単品で見ていろいろ誤解していたと思う。その幻想的な風景は単なる華美な視覚的効果でなく、あくまでもテーマの追求の一環。自在に変化する作品の幅は、自分の世界観を映画で実現するというより、映画における思考実験の中で真実を求めるような感じがする。そのための躊躇がまるでない。
真実への執拗で抜かりない追求。
ランティモス監督の映画による試みはベラの生みの親、バクスター氏に重なる。醜さとその産物、疎外感、社会への復讐。ここでバクスター氏が''作品''として生み出すベラは映画のメタファーのように思える。
この作品で描かれた宿命の絶望が、ベラの身体という映画を通して、もしくは次の世代(胎児)に託すことによって、可能性を見出し、人の心を得ることの気配としての希望として昇華されているとしたらとても素敵だと思った。
究極に、純粋に、実験的な試み。見れてよかったほんとに。
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