小径

オオカミの家の小径のレビュー・感想・評価

オオカミの家(2018年製作の映画)
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現実よりリアルな寓話

心の内にある恐怖心を手で直に揺さぶられる感覚。
共感というより共鳴。


この映画は境目の緩んだ夢の世界から決して逃してくれない。ここではあらゆる物理法則のネジが緩み、ある観念は様々に形を変え、あらゆるものについて事実としてそれらを掴むことを許さない。そしてその流動的な恐怖心は観客と映画の境目を容易く疑わしいものにしていく。するりと形を変える''それ''は私たちの内側にも形を変えてするりと潜り込んでしまうよう。比喩とか示唆のレベルじゃなくて、私の心に直で闖入する。

血や肉やグロテスクな、鮮烈で生の感情を伴った描写がどこかであったら、気分が楽だと思う。

彫刻の得体の知れなさ、無機質さ、流動性がその世界観の徹底に加担している。

私の中で精神的苦痛は、痛みや叫びとか、そういう熱的なものというより、緩慢で無感覚なものに近い。
自分が、もとい自分の心が直にそれを感じる。夢(精神部分)は中心にある最も近い感覚でありながら、その実体が定まることは無く、バランスを欠いている。
徹底された非現実こそが、潜在的に潜む一番現実的な部分を誘発する。その正体を確認することの出来ない恐怖と、生きている以上そこから逃げることは出来ないという恐れとともに。

ここでテーマの背景としてあるカルト宗教にもそういう性質の絶望があったのだと想像する。

自分から湧き出たような意欲も、家も、りんごも、みつも、森(体制)がもたらしたもの。どれだけ心に反体制因子が生まれようとも、彼女の存在はオオカミ(森)の存在無しには成立し得ない。彼女のための隠れ家と思われた家はオオカミの家に過ぎない。

反体制の中の体制ありきのなりたち。

彼女の反体制因子に対して体制はりんごをもたらし、それは意欲をもたらし、子どもを生み出す。それを彼女は反体制の賜物として喜ぶが彼らは体制の因子に過ぎない。一方でりんごを食べなければ、マリアは孤独のうちに、人知れず飢え死にする。反体制は体制有りき。体制を取り入れるしか生きる方法はない。彼らは様々な形状を取り、その手を着々と広げ、彼女を支配の無気力感のうちに降伏させようとする。どれだけ抵抗しようとも無駄だとメッセージを送り続ける。そしてついに反体制を体制の一部として飲み込む。また森は、反体制を子どもを飲み込む。閉鎖的体制は、血縁という閉鎖的な仕組みを取って永続的に、形を変えながら、続いていくのだ。

家(木)も体制によって作られたものだとして、
なぜ体制が反体制のための隠れ家を作るのか?という疑問については体制の反動として否応無しに反体制というものが生じるから。その点はもう少し考えたい。

ボーのアニメーション部分の担当の方が監督だそう。ひええって感じ。分かりみが深いです。
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