daisukeooka

隣人X 疑惑の彼女のdaisukeookaのネタバレレビュー・内容・結末

隣人X 疑惑の彼女(2023年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

原作既読。だったけど、映画を観てからちょっとしたひっかかりが出来た。なのであらためて、「小説現代 2020年5月号」に掲載された原作を読んでみた。映画と原作を脳内で比較してみて、作り手たちが原作をどう映画の物語にしていったのかを推測してみたくなったのだ。

じゃあその「ひっかかり」ってなんなんだ。「X」は「惑星難民」として、この地球上に受け入れられる。まずはアメリカ政府が受け入れて、数ヶ月経って日本政府が追従する。無色透明な生命体で、人間に同化するけれど、とても知性が高く無害だという。Xに同化された人間は、外見からそうとは分からない。らしい。

問題はその「らしい」ってことで、実際には「X」がどんな存在なのかが一般市民にはもう一歩具体的には分からないから、「本当に危なくないのか」という疑心暗鬼が広がっていく。原作でも映画でも、その疑心暗鬼は週刊誌によって転機を迎えるわけだけど、普段それなりにニュースの現場に身を置いている人間として、週刊誌の抜き記事(あえてスクープとは呼ばない)が、周囲のマスコミを沸き立たせて対象者に取材が殺到する状況にリアリティを感じなかったのだ。

3.11と新型コロナを経て、政府や当該機関は「大きな社会の変調に市民集団を馴化させる策」について、こちらが想像している以上に周到な手立てを準備しているんじゃないかと、僕は思ったわけだ。まず雑誌記者が「この人がXに違いない」と類推して近づいたとして、本当に「X」であれば、そんなことする前に対象者と雑誌記者を「気付かずして接近させない」策を取るはずだ。一方でメディアには「Xのプライバシーを侵害しないように」と厳しい通達を出し、その理由を「難民の安全な受け入れを図り、惑星間の友好に資するため(戦争を抑止するため)」とでもするだろう(何よりXは宇宙を渡って地球に来た存在で、人類を凌ぐどんな凄い技術を持っているか分からないから、初手から敵対・刺激するわけにはいかない)。

そしてメディアもそんな通達を受けつつ、自律的にXへの取材を「より丁寧に」やるはずだ。メディアは常にあらゆる権利団体や視聴者からの批判にさらされていて、炎上リスクを伴っている。プライバシーを踏み越えて対象者に「無理やり言わせる」ような取材をかければ、それを見た読者や視聴者は嫌悪感を持ち批判や攻撃に回る。誰かれなく「あの人はXの可能性が高い」と無理やり印象付けたり、X本人にマイクを突きつけて突撃取材するよりは、より客観的に確かな情報を探しながら「Xと関わったという地球人を探す」「X本人が申し出るのを待つ」という迂回の手を取るほうが、より社会と自社双方にとってに有益だと判断するだろう。

そんな風に思いながら原作を読み返したら、原作の末尾に<エピローグ:とある星のとある歴史>として、物語のバックグラウンドとも言える「X」のこれまでが描かれていた。そんな歴史があるとしたら、「X」と人類の間を取り持った希有な人間たちが、良子(上野樹里)と笹(林遣都)を遠くから見守っている、なんていう映画の作りにしても良かったんじゃないか、なんて思ったりした。でもこの映画はそうはしなかった。

きっと、この映画ではそこを言いたかったんじゃないんだろう。ここまでつらつら考えた「リアリティ」を「そんな細かいことはいいんだよ」と、映画は優しい口調だけど有無を言わさぬ動作で横に置く。そして、良子の父母夫婦はその思いを、映画の中でも原作通りに、無思慮なマスコミとその背後の社会に向けて、強く淡々と表現する。(それが卓越した知性のXによる周到な戦略なのかどうかはもはやどちらでもよく)言いたいことはそっちのほうだ。「地球人だろうがXだろうが(日本人だろうが外国人だろうが)私はあなたがあなたでいてくれるから、あなたを愛するんだ」ということのほうだ。Xという存在を「私とあなた」の間に漂わせることで「あなたが何でも・私が何でも・私はあなたを愛する」という意志と行為が際立つ。そういう意味では「X」って大発明なのかも知れない。

さらに映画は、結局「誰が地球人で誰がXなのか」をも横に置かずに描ききっている。抜いた週刊誌が謝罪会見を行うところまでは原作に沿っているけれど、その後の話運びはニクい。「その手があったか!」と膝を打った。そして転調を越えた主要人物たちは端正さを取り戻し、「こんなふうに穏やかで優しくありたい」という表情で、互いの思いを伝え合う。良子が笹と扉を隔てて対話する、湖畔の小屋でのラストシーンは、静かで美しかった。尺の中で映画としての結論にたどり着いていて、責任を持ってこの物語を締めくくっていた。

上記のようなSF感は、特別スゴいスケールの物量を用意しなくても、描こうと思えば描ける昨今。そっちに振らずに「人と人がわかりあうこと」に体重を載せきって描くには、演出と演技が相当しっかり出来てないとやり抜けない。そこをこの映画はやり抜いて、観客を、良子が生きている世界に巻き込めていると思うのだ。

他にも、「Xは既存の地球人の中に潜り込むの?それとも既存の地球人のそっくりさんになるの?」「潜り込んだら、潜り込まれた方の人格はどうなるの?」「そっくりさんになったら、その住処とか仕事とか本人確認とかどうするの?」などなど、具体的に細かな設定や動きを考えていくのも面白い。原作と映画を比べながら思考実験的に楽しめるのも意外に稀な体験で楽しいのだ。「次」があるとしたら、ポリティカルSF的な「隣人X」も観て(読んで)みたい。
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