Miller

フェイブルマンズのMillerのネタバレレビュー・内容・結末

フェイブルマンズ(2022年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

エンジニアの父バートとピアニストの母ミッツィに連れられて、映画館に初めて行った少年サミーは衝撃を受ける。
鉄道と車が激しくぶつかり、その様子が撮影され、映画館の画面一杯に映されている!
映画に衝撃を受け、その魅力に取りつかれたサミー。
サミーは、ハヌカのプレゼントにカメラを貰ったことを取っ掛かりに映画製作に没頭していく。


サミーは特撮、ホラー、西部劇、ホームムービー、戦争映画、青春映画、時間の経過とともに映画を制作していく。
ミッツィの言葉の「全ての出来事には意味がある」という言葉のとおり、サミーの体験した出来事はサミーの映画に反映されていく。


サミーは、家族と父の友人ベニーとキャンプに行った時のホームムービーを編集している際に、母親がベニーを愛している事に気が付いてしまう。
映し出されたものの中には、意図しない真実が映りこんでしまうことがあり、そのことはサミーを傷つけるが、その一方でサミーの新たな映画の演出の方法に加わる。
真実を切り抜き、映画を完成させる。
その逆に、映画の中に本物もしくは、本物に近いものを登場させる。
ボーイスカウトの仲間と戦争映画を撮影する際に、俳優に対し演じる役の背景を深く説明し、その演者をその役へと誘導する。
その俳優は実際に悲しみ、その様子が撮影され、完成した映画は観客の感情を深く揺さぶる。
青春映画を撮影した際には、若者の肉体の輝くような躍動があり、その中でも画面で輝く1人をピックアップして、輝いている瞬間に更に光を当てる。
照らし出す先を見出す力、そしてそれを輝かせる力。

サミーによって映画の中で、知ることなく見出された同級生ローガンは、「何故あんな風に俺を映した!俺が脚が早いのは練習をしたからだ!俺はあんな完璧な存在ではない。あれじゃあ俺は・・」
と言い、サミーの作り出した映画に映し出された自分の姿と、実際の自分との乖離に戸惑い、自分を憐むように涙する。
ユダヤ人であるサミーを差別し、酷いやつとして描かれるローガンであっても、サミーの映画を観た人にとってはヒーローになる。
自分の映画をより良くするためには、照らし出す先の人物の人間性は関係なく、切り取った時に輝いていればそれでいい。
その後、その人がヒーローとして扱われようが、三枚目の笑われ者、嫌われ者になろうが関係ない。
映画の中で、切り取り演出したものは、その場限りの嘘のようなものであっても、観客それぞれに湧き上がってきた感情は本物になる。



サミーが、映画の特撮撮影を再現するため、鉄道のジオラマを壊すように扱った時、ミッツィの「サミーは分からないことをコントロールしたいのよ」というようなセリフがある。
どんな人でも面白い出来事、悲しい出来事、嬉しい出来事、様々なことを話し、書き留めたりすることで、出来事を言葉にする。
体験した出来事を何度も何度も言葉として表すことで、その出来事が自分のモノとして腑に落ちる。意味を理解する。
一方、サミーは出来事を映画で表現しようとする。
撮影現場で撮影するものを構築し、撮影したフィルムを切り継ぎ、その場面にあった音楽をかけ、その場面毎に効果的な演出をする。
サミーの演出によって撮影されたものは意味を持ち、観客の感情を自由に支配する。
ミッツィの言葉では「全ての出来事には意味がある」だったが、サミーの作り出す映画は全ての出来事に意味を持たすことが出来るようになった。
サミーが編集機を使っている様子が、サミーの周りをぐるりと回るように映し出される場面がある。
その場面のサミーは、その映像の世界を全てコントロールする、魔法使いまたは世界を作り出す創造主のよう。


サミーの映画作りとその映画がもたらすものの描写が終わり、映画は終わりに近づく。
才能を持ち、その才能が知られることないがために燻っている中、サミーは憧れの映画界の巨匠ジョンフォードと対面する機会を得る。
短く奇妙な邂逅で、サミーは憧れの存在から教えを受ける。

地平線が下にある映画は素晴らしい。地平線が上にある映画も素晴らしい。
以上だ。出てけ。

巨匠の教えを胸に前に進み始めたサミーのラストショットが、カメラのブレとともに地平線が下になるように動く。
お茶目さと共に終幕する。


スピルバーグの映画の魔力に驚き、感動し、楽しんできた自分にとって、スピルバーグの歩みを教えてくれるような作品だった。
サミーの奇妙で可愛らしいファーストキスや、サミーの映画でヒーローとして描かれたローガンが戸惑いつつも少し嬉しい様子、エンディングのカメラのブレ、沢山のユーモアに溢れている。
やっぱり彼の映画は最高だ。
Miller

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