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オッペンハイマーの1234のレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
5.0
公開二日目夜、先程さっそく観ました。
アカデミー賞受賞作で文句なしです。
それだけは確実です。

でもやはり日本人ですね。
わかっていても、
日本の投下先を決める選定会議で広島が選ばれたシーンと、
ラジオとその後のスピーチシーンは、
胸が苦しくなります。

今こうして映画館から出て空を見上げていますが、
ほんの50年ばかり、
自分がいまより早く生まれていたら…
現実にあれが頭の上に落ちていたんですね。

いまここにいるのは、
因果律によらない、
ただの偶然に過ぎない。

このことに気づけるのも、日本人としてこの映画を観ることが出来るおかげです。
ここには変な解釈を入れず享受すべき事実で、この映画の公開に踏み切った配給会社に感謝しかありません。

量子は波か粒子か分からない。じっさいはその両方だと言われていて、とにかくわたしたちの体は突き詰めればすべてがすり抜けてゆく「空っぽ」です。

それでも感じる心の痛みは、その「空っぽなはずの体」の反応ですね。


話は時系列を整えれば、
とても単純なお話です。

1954年にオッペンハイマー博士が「ソ連に原爆の情報を流していた」とあらぬ疑いをかけられ、ついにオッピーの公職追放を決定した「聴聞会」と、

1959年に上院が、当時原子力委員会の委員長だったストローズを、商務長官に任命すべきか開かれた「公聴会」です。

54年の聴聞会(“核分裂“)はカラーの小さな小部屋、
59年の公聴会(“核融合”)は白黒の映像
と使い分けられていて、
カラーと白黒が混ぜこぜになって物語りは進みます。

59年の公聴会で暴かれたのは、聴聞会でオッピーに不利な状態になるよう仕組んだのは、ストローズだった、ということですが、
この映画が、54年と59年のカラーとモノクロの対立を軸にしている理由は、
ふたつあると思います。


ひとつは世界の向こう側を覗くことができた「神」である物理学者オッピーと、

その物理学者に心底憧れながらも、
プリンストン高等研究所でオッピーに密かに嫉妬していた「世俗」である、商人出身のストローズの対立の構図です。

「神」と「世俗」の対立。
アインシュタインがストローズと目を合わせない理由は、ストローズの考えとはもちろん違い、
「神」が人間に火を与えたのち、
神が受けるであろう永遠の拷問を予見していたからですね。

ストローズが聴聞会を仕組んだのは、
自分が「世俗」だと、
アインシュタインやオッピーなどの物理学者から“見下されていた“と感じていたからで、
まさに被害妄想からでした。

「世俗」は、被害妄想しているときにだけ、
自分が世界の中で「神」になれます。
(いまやネットには溢れてますね、そんな「神」が…)
戦争という行為も、
戦争を起こし、それを支えるのは、
被害妄想が生んだ自称「神」たちですね。
現代も、変わらず…

しかし映画でもある通り、
ほんとの「神」は「もっと重要なこと」を、
いつも思い悩んでいるものですね。

“愚か者と未熟者だけが夫婦関係を疑う。
僕たちは、大人だ“(オッピー)
これも同じことを言っています。

「神」とは、大人のこと。
「世俗」とは、子ども(神の子)のこと。

おそらくノーラン監督の思いでもあるでしょう。


もうひとつは、54年と59年を、恐ろしいほどわかりにくく混ぜこぜにして、観客に見せるためだと思います。

時間軸があっちこっちするのは、もはやノーラン監督の得意技ですが、今回は少し意味が違うと思います。

ノーラン監督の作品で注意が必要なのは、この監督、ほんとに「何気ないシーンのひとこと」がすごく重要だったりします。

劇中で、「ドイツでたった一度しか会わなかった」ハイゼンベルクのある言葉です。

「量子力学では、因果律というものがうまく働かない」

ノーラン監督は、この「因果律が働かない」ように、わざと54年と59年をゴチャゴチャにしてるんだと思います。
(ふつうは白黒のほうが過去ですもんね。ここもわざとだと思います。)

つまり、「何故その決定に至ったのか」「何が彼や彼女たちにそうさせたのか」
そういうものはわからないし、因果律によらない世界を、わたしたちは生きてるんだ、こう言いたいんですよ、この監督は。

劇中で起こる出来事(党員への揺らぎ、不倫、自殺、原爆の開発)は何かこれといった明確な理由がないんですね。

「そうすることも、そうしないこともできた」ことばかりなんです。
“もっと複雑なんだ“
とオッピーはしきりに言いますね。

(ジーンが花を捨てるのは「花が嫌いだから」ではありません。「目的のために花を渡されたくない」んです。花がまるで通貨に変わって、自分が単純に回収されることを拒んでいるんです。

オッピーもそのことはわかっていて、
花は目的のために渡すのでなく、
「渡されてから捨てられるため」に渡されてましたね。人間は本来、複雑なんです。)

だから聴聞会で「何故そうしたのか」という追及がオッピーを不利にしました。
「揺るぎない実績」が襲いかかってきたとき、太陽が破裂するようにホワイトアウトするんですね。

(カミュの『異邦人』で、主人公が裁判中に動機を尋ねられて「それはきっと、太陽のせいだ」と答えた場面を思い出します。)

神の炎を人間は手に入れましたが、
代わりに人間は、因果律を失ってしまっているのです。

それはつまりもう、この世を治める神を信じることが出来なくなってる、
それが現代なんだ、現実なんだとこの監督は言いたいのではないでしょうか。

だけどアインシュタインは、
こう言うんです。

「神は、気まぐれにサイコロを振らない」と。

映画の物語は、オッピーとアインシュタインの出会いのシーンで動き出し、
オッピーとアインシュタインがそのとき何を話していたかのシーンで終わります。

つまり、
「気まぐれにサイコロを振らない」という言葉に挑戦して、オッピー(プロメテウス)はついに神の炎をつかみ出して「神の意志を越えてみせた」のですが、

ところが、その行為によってオッピーと、この世界は、因果律を失ってしまった。
「もともと因果律が無いんだ」と明らかにしてしまった。

罪が無いのに、いきなり罰があるかもしれない。
逆に罪だけがあるのかもしれない。
因果律が無いと、良いことをする理由も、悪いことをする理由もなくなる。

理由があって結果があることなんてない。
あったとしても、とてもとても薄弱な、細い細い糸でしかない。

理由なんて、いつもあとからやってくる。
(ナチスがいたから、日本がいたから、共産主義者がいたから、揺れていたかったから…笑)

オッピーが親しい人を自分のせいで失ったと絶望に襲われているとき、わたしたちならば「あなたのせいではないよ(あなたが原因ではないよ)」と慰めますよね。

でもオッピーの妻は、そんな慰めは、ただの気を紛らすことにしかならないことを知っています。因果律を説いても、ほんとうに心から悔いている自分の大切な人を、救うことが出来ないと知ってる。
だから「罪を犯しておいて、同情までしろと?!」と言って、彼を現実に救いだすのです。

罪に「原因がある」と考えることは、ひとつの免罪符であり、一瞬の自己欺瞞かもしれません。
ほんとうに罪に苛まれている人に、原因を見つけ出して取り除こうと勧める行為は、
病人に劇薬を盛るようなもの、とオッピーを深く愛する妻だからこそ気づいているのです。

同時にオッピーの妻がこぼすように
「この部屋(これは聴聞会の部屋だけでなく、世界のことも含むでしょう)では、わたしたちの人生がこま切れにされる」んです。
(彼女が酒浸りの生活のいちばんの理由かもしれません。逆に彼女でないとオッピーの妻なんて勤まらない、とも言えるのかも…)

世界は因果律では動いていない、
でも因果律が無いと、何を信じてよいのか、何が正義なのか、わからなくなるんですね。

世界は因果律では動いていない。

それはつまり「出来事というのは、理由もなく、ぜんぶあらかじめ決まっているんだ」と。
「わたしたちにできることは、それに身を任せることだけなんだ」と。
(ロスアラモスで二箱の木箱を見送りながら、オッピーはそうこぼしますね。)

オッピーは妻によって救われました。
現実は因果律で動いていない、これで救われるのはオッピーだけではないでしょう。

しかし同時に恐ろしいと思いませんか。
広島長崎に原爆が何故落とされたのか…
そこにも「理由がない」と語ることになるからです。

この映画は、
オッピーに対する聴聞会は、
「“世界にもともと因果律は無い“
と言い放った尊大なプロメテウス」に
神のバチが当たった、という構造です。

しかし、だからこそ
「神は気まぐれにサイコロを振らない」と、
つまり
「世俗を超えた因果律を、
物理学者は探し求め続けないといけないんだ」
こうアインシュタインは言ってるんです。

そこに至る道筋はまるで違いますが、
オッピーの妻とアインシュタインは、
別々の極から同じ場所を見ています。
(妻は夫の不貞という現実から、アインシュタインは物理学300年の矜持から)

そして両極から、
オッピーを救おうとしています。

妻はオッピーに“戦いなさい!“としきりに言います。
(石川啄木が『時代閉塞の現状』のなかで(自分の言葉を世界に届ける)「宣戦が必要なのだ」と書いたのを思い出します。)

アインシュタインは“(それでもなお)君は祖国を捨てていない“と。

因果律の無い世界でも

「あらたな因果律を
自力で掴む戦いのなかに、
あなたは立っているのだから、
世俗の因果律に“唾を吐け“」と、

世界中でこの二人だけが、オッピーに言っているわけです。

(両者の違いは、妻はオッピーを通して自分を、アインシュタインはオッピーを含む、原爆がつかみ出された以後の世界を、救おうとしている点でしょう。)

監督はこういうことを言いたいのだと思います。

だから作品は、
アインシュタインへの不遜な挑戦に始まり、
アインシュタインとの会話のシーンに戻ってきて、
映画は終わってるんだと思います。

「世界は因果律では動いていない、だからといって、何も信じなくていいわけじゃない」
ということですね。

ノーラン監督作品に慣れてくると、
ここら辺は分かるようになるんですが、
(いつも言ってることは同じ気がするのです…)
いつもと違うのは、
その神の意志が、原爆として取り出された世界に、わたしたちが現実に生きてるということです。

ここは、空想じゃないんです。
一歩踏み込まれているんです。

原爆がこの世界に矛盾をもたらしているのではなく、
矛盾が原爆を生み落とした、とこの映画は、はっきりと語っているのです。

この原爆という最悪の兵器をまったく肯定することなく、また生み出した人物も肯定することもなく、
原爆の誕生を、「神から生まれた人間」という種族の自然史過程のひとつとして、描いているのです。

だから、前者(“原爆が矛盾をもたらしている”)の視点からこの映画を断じようとする批評は、すべて的外れだと、わたしは思いますし、
この映画を観た方は、これから映画批評やTwitter(Xとは呼びたくない)に、たくさん現れるであろう安いレビューに、易々と乗らない方がよい、と思います。

乗っかると、ストローズが辿った運命しか待っていないでしょう。

長くなりましたが、
要は紛れもなく、名作です。


〜追伸〜
映画では、フォンノイマンは出てこないのに、
ゲーデルはチラッと出てくるのが面白いですね。

ノイマンは京都を含めて原爆投下を勧めた科学者です。のちに世界初のコンピューターの基礎理論を作りました。だからいまのネット社会は、ノイマンが作ったわけです。

一方で、ゲーデルはノイマンとの数学競争に勝った人です。論理で埋め尽くした世界では、必ず論理の穴ボコが出来ると、ノイマンよりも早く定理化した人物です。

ノーラン監督はスマホ嫌いで有名ですね。
監督は、いまのネット社会の礎を築いたノイマンではなくて、ゲーデルに未来を見ている。

だから作中のアインシュタインは、
じつはノーラン監督の姿なんだと思います。

いつものノーラン作品なら、ノーラン役(?)の登場人物でだいたい終わりますが、今回はそのアインシュタインに対立した、オッピーのあのラストのセリフで終わります。

つまり監督は「これはいつもの映画じゃない。いまのまさに現実なんだ」とメッセージを送っているのだと思います。

監督はアインシュタイン。
ならオッピーは…
占いや陰謀論などの因果律が通じない、この現実世界そのものなんだ、と。


蛇足かもしれませんが、ひとことだけ。
この映画配給を見送った会社は、全員減給処分で良いと思います。

優れた作品は、目の前の現実の影響から離れて、時代が下れば下るほど、不思議とその重力が増してゆくものです。

目の前の影響力という近い引力ばかりを気にして配信を左右されるなら、そこら辺のYoutuberと変わりません。映画は、その即物風潮の対極にいる灯台の灯りです。

アカデミー賞獲らなかったらどうするつもりだったのでしょう?ビターズエンド社がいなかったら、劇場公開も無かった。

目の前の批判を恐れて、
将来に増すかもしれない重力を、
あらかじめ手中でコントロールしようなんて、
まさに原爆開発と同じ思考ではないですか。

もう少しで、

“なお被爆国の日本では、
この映画は公開上映されなかった“

というパッケージが、後世に傷として遺るところでした。
この映画をご覧になった方ならば、
それがどれだけ恐ろしいことか、お分かりになると思います。

配給会社は、自分たちが将来に対して責任を負っていることを猛省して欲しいです。


しつこい追伸〜
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