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君たちはどう生きるかの1234のレビュー・感想・評価

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)
5.0
「内容がよくわからない」という感想をよく聞きますが、
「もしや本気の宮崎駿なのかな?」が映画から伝わってくるだけでも、映画館で観ておく価値は十分にあると思います。

話の内容は、宮崎さんの詩的な世界なので、完全な解説は不可能だと思います。

詩人の詩を「これはどういう意味の詩ですか⁈」なんて尋ねるほど、野暮なことはないでしょう。

まだ観てない方には、
レビューに左右されずに、
まずは観て味わってみて!後悔しないから!
としか言えないかな、と思います。


ただ、おおよそ話の骨子はわかりました。

(原作は読んでいないので、原作との関連は分かりません。
原作との関連で気づいたことがあれば、教えてください!)

筋だけを言ってしまえば、“宮崎さんが「自分がどのようにこの世界に生まれてきたか」を追体験している作品“と、まとめてしまうかもしれません。

(母(義母ですが)が塔に入って地下世界に潜るのは、生と死が混ざった世界から〝子どもを産む〟準備に入ったことを表していますね。

出産は物理的な行為だけでなく、
人が人を生み出す、極めて精神的な行為でもあります。
それを主人公の少年は、追いかけて行くのですから、
たしかに自分の人生を追体験してる、と言ってよいかと思います)

しかし、タイトルは「君たちは~」ですから、
宮崎さん自身の振り返りだけではなくて、
何か「私たち」に届ける宮崎さんのギフトがあるはずです。

それは、何でしょうか。

主人公の少年の父が、戦災で消えた妻の妹を後妻に迎えることは、むかしの日本、とくに戦時下では割とよくあることだったようです。

とはいえ、少年の母が消えてから日が経ってないし、しかも、後妻にはもうお腹に子どもがいる。
軍需工場の社長として、優しいんだけど、金に守られているズレたダメ親父であることは間違いないですね。
(この声にキムタクを選ぶとは、
適材というか、宮崎さんはすごい試練を課したものです…)

ポニョのときの親しかり、千尋の親しかり、後期の宮崎作品はだいたいダメ親が出てきます。

それは、この話のテーマのひとつが、
「ごまかし」だからだと思います。

大人になるとは、自分自身で作ったストーリーで、現実をごまかして、見て見ぬふりする人間になってゆく過程でもあります。

少年が頭を石で傷つけて寝込むのは、「学校でいじめられた」というストーリーを作る目的でした。
でもその自分で作ったストーリーを、周りの人がどう受け止めるかは、他人まかせにするという、とても無責任な態度をとります。
だから「転んだだけ」と言ってるんですね。

嘘のストーリーを作った。
でもその嘘を現実のストーリーとして受け入れているのは、自分じゃなくて周りの人たちだ。

これ、ずるい大人がやることですよね。

自分だけはそれを嘘だと知っている。だけど嘘を信じさせようとはしていないから、自分は嘘をついたことにならない。
だから自分には責任はないんだ。

それに、みんな嘘ついて生きてるじゃないか。僕だって嘘のなかで生きてるんだ。

(屋敷のオババたちや、人間化したアオサギが、やけにデフォルメされてグロテスクなのは、主人公の少年の、こういう視点から眺められているから、あんな極端な悪意に満ちている姿なんだと思います。

嘘のなかで生きるのは、イタドリの葉っぱをタバコ代わりにしながら、「美味しい」と吸ってるシーンなどに現れてましたね。
キリコさんだけが「そんなの吸えるか!」と怒ってました。都会のお土産にも目もくれない。それで地下世界の案内人になれるんですね、キリコさんは。)

こう、少年は暗に主張してるわけです。

しかし少年には、後妻と父のあいだに出来た子も、
嘘のストーリーに見えている。

これから生まれてくる子どもたちも、
もしかしたら自分も、
嘘のストーリーのなかで生まれているのではないか…

結局、少年は嘘のストーリーに追いつめられていくことになります。
(大量の鯉🐟やカエル🐸が少年の体にまとわりつく姿に表れていましたね。)

大人ってそうですよね。
自分でついた嘘のストーリーによって、
毎日潰されそうになりながら、戦々恐々と生きている。
そしてそのまま取り返しのつかない嘘によって、人を深く傷つけ、気づいたときには、取り戻せない過去に慟哭したり。

最たるものは、戦争がそうですよね。
少年の母を奪った。

嘘を隠す自分が、呼び寄せてしまったアオサギに導かれて、母を探す冒険に出ます。
奪われた母を探しに行く。これは地上の現実では見つけられない、自分のルーツを探しに行くようなものでしょう。
神話では、スサノオという神さまがこれをしていますね。
(そしてそれが最初の文芸だったり。)

地下の詩的な世界を通って、現実に抜け出るとき、少年は自分でつけた頭の傷を

「これは僕の悪意の象徴です。」
と自ら告白します。

自分は嘘のストーリーかもしれない。
でも嘘のまま自分を救い出すことを諦めて、そのまま大人になることは、できない。
こう告白してる。

地下の詩的な世界では、「嘘のない要素」の積み木で、世界を作り直そうとするご先祖がいました(その姿はまさに戦々恐々としていました)が、主人公はそのあとを継ぐことを拒否します。

13の積み木は、これまでのジブリ13作品、という考察をこのフィルマークスで見つけて、なるほど!と思いました。

少年は宮崎さん自身だと思っていたのですが、積み木を積み上げていた大叔父が宮崎さんだった。

この作品の少年は、
前半は宮崎さん自身なのですが、
後半に少年が地下世界に潜ると、
宮崎さんは大叔父になっています。

後半からの少年は、
宮崎さんではなくて、
映画を観ている、私たちなんです。

それで、「君たちはどう生きるか」というタイトルなんだろうと思います。

そして人間から不自然な生き方を強要されてきた野生動物(インコ🦜たち。やけに可愛くないのは、人間を含めて、“言葉を強制されながら迷惑扱いされる憐れな生き物”を代表してるからでしょう。)の邪魔が入って(彼らは「嘘をつくな!権力を自然に返せ!」と抗議してるわけですね)、嘘のない積み木は、崩れ去ります。

生きるとは、嘘をついて生きることだ。
これってとても、自然に反していると思いませんか。

人間はほかの動物と違って、そんな自然に反するような“反自然”が生まれる前から身体のなかにセットされているのかもしれません。
(じつは生まれるまでに、自然と反自然のせめぎあいをいちど経ているのかもしれない。ワラワラを食べるペリカンは、やりたくてやってるわけじゃない、そんな自分のなかの反自然なのでしょう。

ペリカンはそんな人間にセットされた反自然、
“生”から見れば“壊れゆくもの“
“死”から見れば“生まれ得ぬもの”なのでしょう。だから自力では“死の門”をくぐることすらできない。

自力では“生きてもいない”し
自力では“死ねない”んでしょう、
ペリカンは。

そのペリカンから守って、火を産むように、命懸けで母は子を産んでくれる。)

でも嘘をついて生きる自分を反転させてくれる、優しい嘘だってあるんだよ、

その優しい嘘が、他人とほんとの意味で出会うということなんだ。

そんな宮崎さんの声が聞こえてきました。

経験として分かるのですが、
「自分を傷つける人」は、
周りの人が、いたわりたくても、いたわることが出来ないんですね。

その人は「自分を傷つける」ことで「自分を慰めている」ので、周りは「傷を癒す」ということが出来なくなるんです。

自分で頭に石をぶつけた少年が、その状態ですね。

じゃあ、なんで自分を傷つけたりするのか、といえば、自分にしか感じられない傷は確かにあるんだけども、「誰もその傷に触れてくれない」と諦めているからです。

だからわざわざ自分で、誰にも一目で分かるような別の傷をつけるような真似を、自傷行為をしてしまう。
(その傷に「気づいた」としても「ほんとの傷はこんなものじゃない!」と騒ぐので、結局は誰もその人をいたわることが出来ないのですが…)

傷とは、「大切なものを大切に出来なかったときに起こるものの総称」と教わったことがあります。

逆から言うと、傷とは、
その人が「誰かの代わり」ではなく、
初めてその人個人として、
世界と繋がっている証とも言えると思います。

「大切なもの」「生きる証」が、色づいた写真のポジだとすると、

傷は写真のネガなんだと思います。

地上世界はポジの世界、
地下世界はネガの世界。

傷があると、「生きられない」。

だけども同時に、
傷を持っていることは、
代わりのきかない、かけがえのない出来事であることもよく知っている。

「ねえ、僕はこんな感じに傷を持っているよ。君たちもあるだろ?ねえ、君たちはどう生きるの?ほんとに、教えてください!」
じつは宮崎さんは、こう私たちに向かって、すがってきてくれてるんじゃないでしょうか。

宮崎さんは、ここまで自らを晒して告白することで、
こう言いたいのではないでしょうか。
人は、一人では決して生きられないと。

母を追いかけた少年は、
地下世界で、彼女から地上ではあり得ない「あなたなんて大嫌い!」という明らかな嘘の言葉に触れます。

ほんとに誰かを愛するというのは、
これまで知りつつも見て見ぬふりしてきた、その相手の、傷にそっと触れることではないでしょうか。

そうして人は地上世界で「嘘のなかで生きる」自分を、地上世界で反転することが出来る、それが、人の優しさの獲得過程なのではないでしょうか。

少年は自分のストーリーのなかの母親と訣別する(ヒミと友だちになる)ことで救われて、翻って反転して、義母を母と呼び、「この人を救わないと!」となります。

生きるとは、嘘をついて生きる自分を、
どこかで反転させることだ。
君たちはどこで、その反転を引き込むのか。
そこに大人になる鍵があるよ。
そんな宮崎さんの声です。

「ここから逃れたい」という理由だけで、自分を傷つけても、薬物のように、どこか違う世界に飛ぶだけで、傷は決して癒えることはありません。

知的威信に走ったり、名声に飢えたり、
ネトウヨになって生涯を浪費するだけです。
自分を癒す鍵は、他人との出会いを果たしたときの自分のなかにある、それは決して自分にとって受け入れやすい経験ではないだろう(傷を他人に触れさせるので)、そんな声です。

(ことあるごとに「論破!論破!」という人は、
この反転から最も遠いところに留まった人ですね。
その意味で、死ぬまで生涯子どもです。

過度に「傷つきたくない」んだと思いますが、軍需工場のキムタク父と同様に、
結局はお金に守られているだけなので、
敢えて真似はしない方がいいと、
私は思います。)


そうわたしはこの作品を読みました。


それにしても、
「難しいけど、意味不明ではない」
という感想がとても多くて、
それだけで宮崎さんってほんとにすごい人だと思います。
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