スローターハウス154

ドライブ・マイ・カーのスローターハウス154のネタバレレビュー・内容・結末

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

2022/4/15

原作は昔読んでいてもうあまり覚えていなかったので、観賞後に再読してみた。

時勢を読んだのか原作村上春樹の物語としては(?)救いがあるラストだと思う。救いがあるというより、「終わりよければすべて良し」のような大衆的な親切さにまとめ上げられてしまったように感じ、そこが個人的には惜しい。
『バーニング』の容赦無さが気に入っていたせいか、どうせ映画化するくらいなんだからと、今作にもそういう大衆への迎合を拒んだストイックな物語を求めてしまっていた。
冒頭からずっと守られてきた物語の緊張感が、雪山での白々しい独白で乱れてしまった...ように思う。プライベートにおける感性のクライマックスでさえ滔々と言葉をほとばしらせ、的確に涙を流し、抱擁で決め込む一連の流れに、この家福という男はもう職業病だなと思った。絶望的なほどに演技者なんだろうという軽蔑的な白々しさを覚えたシーンだった。

また高槻の最終的な処遇(うっかり殺人でムショ入り、そして実はロリコン癖持ちという裏設定)もなんだか勧善懲悪的で大衆迎合性を感じた。原作では自殺したんじゃなかったっけ?と思ったが、してなかった。持て余した暴力性は、彼の場合は自己ではなく他者に向いたらしい。
個人的には高槻はサイコパスとは言えないと思う。本物のサイコ野郎は暴力性をコントロールできるだろうし。それと例えばドライバーのミサキに対する敬意を払っていないところからも垣間見える、無自覚に権威主義的になってしまうところ。そういうところも含め、高槻はまだ若くて無知な部分が多いだけという印象。(ただ、時々何かに操られているかのように家福に対して遠回しな攻撃を与えてくるのが不気味なところ。ひょっとすると家福の妻の意思に動かされているのかも。)「自分は空っぽだ」と気付けるだけの素直さもあるようだし、しばらくの間ムショで頭を丸めてもらって質素なメシ食ってれば、それなりに謙虚さが身につくんじゃないかという気がする。あるいは、独房の中で自分は空っぽだという自己内省を深めずにむしろ開き直ってしまったら、それこそサイコ野郎になってしまうか。どっちにしろ出所後は、少なくとも深みのある俳優になるんじゃないかと思う。

(ちなみに、今回この映画を観て思ったのは、運転が雑な人は自己の暴力性をコントロールできないことの現れなんじゃないかと思った。偏見かな?)

それと冒頭の約45分間は、正直劇場まで観に来たことに後悔を覚えた。まさに春樹小説風とも言えるようなセックスが映像化されていた。素直にすごいと思った。しかしそれをわざわざ大画面で観るという経験は、個人的にはどちらかというと「勘弁してくれ」と言いたくなるような精神的苦痛を伴うものだった。自分の中にある性嫌悪と折り合いがつけていないという己の未熟さのせいもあると思う。でもかりに、セックスが日常運動と化している人々が観ても、ある種の禍々しさを感じざるをえないような性的描写である気がする。
そんな耐え難きを耐えた「僕たちは深く愛し合っていた」40分を乗り越えれば、あとは楽しく観られた。

村上春樹は彼の他の小説の中でも、物質的・文化的豊かさに満たされた現代人特有の空虚さ...みたいなのをずっと描いていると思う。彼が地下鉄サリン事件を取材した経験があるという理由も、そういう空虚さが人間や社会にどのような影をもたらすのかという危惧を感じていたからこそなのではないかという気がする。
共同体意識や相互扶助が成り立ちにくい、個人主義を極めた都会的な世界には、”洗練された空っぽ人間“がウヨウヨいる。
この映画でもやっぱり、そういう目に見える豊かさを全て手にしているが故の空虚感、その自己の空っぽの部分の存在に気づけない人間は「(春樹的なメタファーとしての)井戸」にやがて落ちていく...みたいなのがずっと背景に描かれているように感じた。
高槻は最終的に自分は「空っぽ人間」であることを自覚するが、実のところ家福とその奥さん「音」はそれを上回る空っぽ人間なのではないかと思う。この夫婦の会話は終始気持ち悪かった。彼らの物質的・文化的豊かさ、その表面的な豊かさによって、本来、人間として表出されるべき感情が意図的に排除されてしまっている。この空虚な人間同士の会話...それはもう会話というよりもまるでセリフを吹き込んだテープレコーダーのような無機質な「音」のようだ。(この2人の喋り方は恐らくそういう演技指導なのだろうし、「音」という名前も彼女が言葉という音を出すだけの空っぽ人間であるからこその名前だと思う)
そうやって感情の表出は蔑ろにしているくせに、動物としてやること(セックス)はやっている。結局、どんなに自分自身を理想化・美化しても動物的な欲求からは逃れられないということなのか。あるいは、ベラベラくどくど語るだけの2人は、沈黙の価値をセックスに置き換えているだけなのかもしれない。2人の間には、ミサキのように言葉に頼らない沈黙のコミュニケーションはあったのだろうか。

ところでミサキというキャラクターは、この夫婦の関係は実際のところそのように欺瞞だらけなのではないか?という疑問を投げかける存在となっていると思う。タバコをふかし男性服を着こんだミサキの中性的で無骨なスタイルは、「井戸」に落ちてしまった母から反面教師として学んだという彼女なりの決意であり、女性の禍々しい宿命(性的に被害者側になりやすい)からの防衛手段なのかもしれない。あるいは、男性と女性を仲介するものとしての第三者的な役割か。
家福もその妻「音」も、おそらく一度も貧困にまつわる経験がない人たちなんだろうなということを感じた。貧困は確かに、なるべく経験すべきではない体験かもしれません。しかし、貧困がもたらす闇を知らない人間というのは、なんというか...共感性に欠けていて“ペラい”んです。彼らと違い幼い頃からこの世のどす黒い(あるいは重く降り積もった真っ白な)闇に対して孤独に戦ってきたミサキは、どんな上手な演技も通用しないような、寡黙で朴訥なしたたかさが備わっているように思えた。