ささきたかひろ

ブリキの太鼓 ディレクターズカット版のささきたかひろのレビュー・感想・評価

4.3
主人公オスカルは自らの3歳の誕生日に成長を辞めることを決めた。それは端から見たら究極の承認欲求のこじらせであるし、精神分析学的にはピーターパンシンドロームやエディプスコンプレックスなどの適切な症例を与えることも可能だ。しかし物理的な成長を止めたとなると話が変わってくる。それは完全にファンタジーだ。けれども映画全体の構成が再び成長する事を選んだオスカル自身による回顧録である事を踏まえて考えるとこの話の根幹は案外素朴な成長譚なのだと言うこともわかってくる。

肝心の映画の実態は「3歳の誕生日に成長を辞めた僕のエログログラフィティ」こんな感じである。3歳で成長を辞めたオスカルだが、その拒絶は限定的で内面的には必ずしも子どもらしくは無い。どころか性的な興味は人並み以上に成長しているようでまあなかなかのエロガキ、マセガキである。

一時期この映画が自身のオールタイムベストになっていたほどなので全力で擁護したい。

見続けるしかなかった影が濃ければ濃いほど、巨大であればあるほど実は相応の光が自身を照らしていたと言う事実。その表裏一体の事実をどちら側から描くかは作家の裁量である。この映画はオスカルが見た地獄のコントラストとして常に「正しい大人」のモデルである遺伝子上の父親や「生/エロス」に溺れながら「死/タナトス」に誘われた無尽蔵のエネルギーを持つ母親がオスカルの傍にいる。

彼らの愛は歪で常に底をつき、求め、狂い、時に逸脱し魚を生のまま齧りついたりする。しかし、オスカルはこの2人には決して罰を与えようとしない。罰を与えるのは、養父に対してだ。性交の最中にちょっかいを出し「強制的に生をインストール」したかと思えば隠れ家としていた地下室へソ連兵が侵入してきた時には「自分はナチ党員ではない」と虚偽の命乞いをする養父に対し「党員バッジ」を差し出すことで引導を渡す。。

あれ、オスカル随分な御身分だな、神かよ!裁定者ゾーフィかよ!

貪るようなセックス描写、嘔吐、小児性愛と取られかねない描写、腐った馬の頭、うなぎ、うなぎ、うなぎ。

土用の丑の日前後にはご覧にならない事を強くお勧めする。けれども最後まで悪寒を耐えて見終わった暁には、なにやら得体の知れない多幸感に包まれちゃったり、放り出されちゃったり。

追記 ディレクターズカット版の円盤のスリーブには何とも「愛らしいお馬さんの頭部のイラスト」が使われています。

監督、配給元、はたまたイラストレーターまで巻き込んだこの悪意(または善意)なかなか見事なものです。
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