このレビューはネタバレを含みます
チャラ男の10年の恋慕の物語
「チャラい」とは、浮ついた状態や軽薄な様子を示す「ちゃらちゃら」という擬態語を形容詞化した言葉だそうだ。
しかしこの言葉はどうも本質をついていない気がする。
前述の通りこの言葉はあくまでも表層的でおおよそ私たちの主観からもたらされているように思えるからだ。ボクのチャラい振る舞いにもきっと理由があるのだろうと見守るような気持ちだった。
確かに「ボク」は短慮で拙速で他人の気持ちに鈍感、自分自身の感情すらうまく表には出てこず上滑りし、未決のままのコミュニケーションが積み上がっていく一方。そして、その結実しないものを放ったらかして目についたお気に入りに手をつける。
つまりはチャラチャラとしているのだが、私は表面的な「ボク」の態度よりも「ボク」の背後に蓄積する実ることのなかったコミュニケーションの破片がチラついて観ていて苦しかった。
「ボク」は肝心なことは奥底へ隠してしまうんだ。
そんな「ボク」を唯一見透かしていたのが瀬尾先輩で、その喪失は「ボク」の中にあった唯一の平温のコミュニケーション、愛、憧れを奪ってしまったのだからその絶望は想像に難くない。
「ボク」は優しすぎたんだよね。
「ボク」は本当のウソがつけないんだよね。
癌により顔面の半分が醜く腫れ上がり、術後の影響だろうか会話もままならない瀬尾先輩の病室で2人の間に訪れる重く永遠とも思える沈黙。美しかった先輩の面影はなく眼前には病魔に侵され正視に耐えない先輩の姿。
先輩は「ボク」の奥深くを見透かしたようにある行動を促す。
長い逡巡の後、「ボク」は行動に移した。
「ボク」は決してチャラく見えるがチャラい男ではない。
このシーンの美しさは久しく体験することの無かった「映画」の魔法であり、私はこの時点で「よし、分かったお前はチャラ男のなんかじゃないよ」とボクの本質が分かった気がして満足感と安堵で、正直席を立とうとさえ思った。
何かが起こるわけではなく、俳優が雄叫びを上げるわけでもない。ともすればラストシーンの幻想的な桜の花びらが無作為に散りつもった偶然の幾何学模様のようでもあり、歩みの遅いカタツムリが描いた軌跡を眺めていただけのような気もするし、とにかく類を見ない作品であることだけは確かだった。
映画はたった10秒神々しいカットが撮れたら成立しちゃうんじゃね?なんて身も蓋もない事すら感じさせた良作でした。
追伸
我が推し、伊藤万理華さんは本当にすごい存在感だった。