脱帽です。
脳ミソごと、脱帽です。
目的地もなくフィルムを回して、それが映画になってる。
「作り物じゃない映画」
矛盾にみえる文ですけど、現実に存在しています。
本物はことばを超えている。
だから、これは本物です。
行き止まり、とは目的地からも自由、ということでもあったんですね。
気づいたら、フィルムが人生に寄り添って回りはじめていて、まるで、映画がイタコになって、本人の意思とは別に、雄弁に語り出しています。
映画を撮る理由が、そのままスケボーに乗る理由になってて、気づいたらスケボーが上手くなってて…
人生って、そうやって少しずつ掴むんですね。
作品って、ほんらいはそうして掴まれるものなんですね。
人に必要なのは、夢よりもまず、うそをつかないで済む世界だと。
たとえばスケボーだった。でも、じつは人が、わざわざ映画館に映画を見に行くのは、そんな世界を求めているからじゃないですか。
娯楽じゃない映画って、そういう動機で、最初は見に行きませんでしたか。
その最初の小さな輝きが、この映画にはありました。
そこは自分が見たくない、行き止まりだと。
でもそこからしか、人ははじめられないと。
これは「記録」ですが、紛れもなく映画です。
見ないで映画なんて語れない、そんな類の映画です。