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ジョーカーの1234のネタバレレビュー・内容・結末

ジョーカー(2019年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

先ほど、京王線で事件がありました。

ハロウィンで、ジョーカーの仮装した男が、ナイフで乗客を刺し、液体を撒いて、さらに車内に火を点けました。

ツイッターには、足を組んで窓の外の聴衆をたしなめるようにタバコをふかす犯人の映像が流れています。

この映画を擁護するために、断言します。

あの京王線の犯人は、少なくともこの映画のジョーカーのことは、1ミリも理解していません。

もしこの映画に共感出来ているならば、絶対にこんな事件は起こさないはずだからです。


バットマンシリーズに出てくるジョーカーとは、誰の中にも存在する悪魔の姿を表したものでした。

悪魔は犯罪を犯すことにも、うっぷんを晴らすことにも興味はありません。
そんなことは、小悪人のやることで、悪魔の仕事じゃないんです。

悪魔の仕事とは、人を誘惑することです。

「これだけは私はしない!」と、人々が信じて疑わないものを、いつの間にかひっくり返そうとするのが、悪魔の仕事です。

だからバットマンシリーズのジョーカーは犯罪にもお金にも興味ない。
バットマンの信念をとにかくへし折ろうとする存在です。

本作『ジョーカー』がこれまでのバットマンシリーズのジョーカーと大きく違う点は、ジョーカーをはなから悪魔の化身として表現していない点です。

ホアキン演じる青年は、才能こそありませんが、母親想いのとても優しい青年です。

彼はお笑いが大好きで、どんなに馬鹿にされても、いつかテレビショーに出れるようなコメディアンを夢見ています。

周りの大人たちは、彼を挫折させようとします。だけども彼には尊敬してやまない、大物コメディアンがいました。

どんな辛い世界に居ても、存在するだけで、その人の生きる希望となるような人物が現れると思います。

彼にとってはまさにデニーロがそんな人物で、心の最後の拠り所で、救いの神様でした。

そんな彼が、念願のデニーロの番組の舞台に立ったとき、ふとデニーロに堕落の陰を感じ取ってしまいます。

現実は醒めない悪夢でしかない。
そのなかでも、あなたが笑いで「あ〜夢で良かった!」と、つかの間の避難所を人々に与えてきたのは、人の心の機微に敏感だったからじゃないのか!?と。

あなたは広大な視野と才能に溢れている。だけども、不条理を汲み取ることができなくて、いったい何が笑いだ!?

わたしのジョークは笑えないだろう、でもウソをつくのはイヤなんだ。
ほら、あなたたちも聞こえるでしょ?
聞いて聞こえないフリしてるでしょ?

「ノックノック」ほらね、聞こえた。
だけど、あなたは無視をしている!と。

「あなたがお笑いを目指したとき(監督が小声で言いたいのは、映画『キングオブコメディ』の主人公パプキンだったとき、でしょう。だからホアキンの正装はパプキンと同じ茶色のスーツです)は、そんな人ではなかったはずだ!」と。

だから、ホアキンは、人を殺したくなんてないんです。

彼はずっと、貧しくて才能にも仲間にも恵まれないなかで、自分を堕落させようとする誘惑と、つまり、悪魔と闘っているんです。

彼は笑いたくないときも、つい笑ってしまいます。

最初は、緊張すると身体の障害で笑ってしまう、と彼は思っていますが、じつは彼が笑ってしまうときとは、彼が泣きだしたいときだと、映画が進むにつれだんだんわかってきます。

だから、彼の笑いは身体の反応ではなくて、心のダイレクトな反応なんです。

泣きたい気持ちを精一杯表現してるのに、人にはまったく伝わらない。ときには真逆に伝わってしまう。だから、「病気なんです」と言うしかない。
「笑う病」でなくても、これは彼だけの話ではなくて、誰にでも当てはまる話ではないでしょうか。

それを極端に印象づけるために、むしろ「笑ってしまう」真逆の反応を示す病気持ちの物語にしたのだと思います。

人から汲み取って貰えないなら、どんな自明なことだって、自分には何の意味もなさないじゃないか。
「僕は政治を信じない」と彼が言うのは、そういう理由でしょう。

だとしたら、あなたが信じてるものは、その時々の気分でコロコロ変わる、あなたの主観でしかないかもしれないじゃないか?

あなたは何を信じてるの?
わたしは何を信じればいいの?

悪魔のささやきの原点がここにあります。


彼を最後まで現実に繋ぎ留めてくれていたのが、デニーロ演じるコメディアンの存在でした。彼にとっての神でした。

悪魔サタンは、かつて神から最も愛された大天使でした。
しかし、神に戦争を仕掛け、自らは悪魔の王となります。

なぜホアキンはデニーロに、あんなことをしたのか。

これほどまでに悪魔の誘惑を耐えてきた彼の唯一の支えである神に、堕落して欲しくなかったからです。

この世の不条理を笑いに変えて「これが人生」と教えてくれる神が、わたしが愛を求めていることにも気づかない。あなたはわたしをずっと欺いてきたのか!

あなたの堕落をこの目で見るくらいなら、私があなたを手にかけてやる!と。

彼がテレビ局を出ると、街では暴動が起きていました。

暴動とは「いままで信じて従ってきたこと」をひっくり返そうとする行為です。

神に楯突いた彼の姿を見て、人々は勝手に自分のなかの悪魔の誘惑に負けて行ったんです。
こうして人々は、ホアキンを「悪魔の王」に仕立てました。

しかし、ホアキンは悪魔になんてなりたくなかった。

むしろずっとずっと、悪魔と闘い続けてきたからこそ、最後に自分の唯一の支えである神と対決せざるを得なくなった、そんな不幸な男なんです。

彼は狂っていないんです。
むしろこの映画のゴッサムシティの登場人物のなかで、彼だけが狂っていないんです。

彼は言葉が不自由な男です。それでも言葉以外で、全身で悪魔に抵抗してるんです。

ダンスをし、そして笑うんです。
笑う病気をむしろコメディアンの糧にしようとするんです。
自分を世界から少しだけずらして、悪魔とダンスすることで、悪魔の誘惑から逃れているんです。

ところが周りの人が、そんな彼こそ悪魔だと指弾する。現実の悪夢のなかで、通俗に徹することに夢中で、彼が自由を求めていることに気づかない。

一方で彼は自由を求める人の側にいたいと願っている。だからコメディアンを目指すんです。

現実は不条理です。悪夢です。善悪なんてじつは自分には意味をなさない。だからこそ、現実を離れることが必要、笑いが必要なんじゃないか。

自宅の2人の訪問者のうち、ひとりをそのまま帰すのは、その人がふだんから彼に優しかったからかもしれませんが、おそらくそれほど絡みはなかったでしょう。

その人は「狂っていない」と彼が判断したから、逃したんです。

ゴッサムシティに暮らすわたしたちのほうが、毎朝電車に揺られながら、少しずつ少しずつ、悪魔に近づいているのでないでしょうか。

わたしたちのほうが、毎日どこかに自分を代弁してくれる、この現実の不条理をひっくり返してくれる「悪魔の王」を、探しているからです。

ホアキンは、つまり、どんなに頑張ってもジョークが言えない人なんです。現実の不条理を、そのままにしか伝えられない人なんです。
(番組のなかで彼が披露した「ジョーク」にも、そのことが現れていました)

誰にも伝わるジョークを飛ばす人、〝JOKER〟になりたくてもなれないんです。
彼自身そのことはよくわかっているから、彼は憧れのデニーロに『お願い、私を“JOKER”と紹介してください』と頼んだのでしょう。
彼は、天国のドアを、決して開けることができない。ノックすることしかできないんです。

実はわたしたちの方がずっとジョーカーなのに、彼のような人をジョーカー扱いしている。
「悪魔の王」という悪いジョークで。

ここは、ネット空間を含めた、いまのメディアの本質だと思えてなりません。

私たちは、情報の扱いに高度になっているつもりでいますが、それはただ単に、現実の目を背けたくなる不条理を、「悪いジョーク」に自分のなかで読み替える技術に長けているだけではないでしょうか。

メディアの劣化は、読み手の劣化が引き起こしたと、わたしは思っています。

ホアキンが起こした事件で、放送コードから画面が切り替わり、カメラが引いてさまざまなテレビ番組の大写しになるシーンは、メディアの劣化、すなわち読み取り手の劣化を意味しているのではないでしょうか。
ゴッサムシティは、燃えるべくして燃えているのだ、と。

デニーロを踏み越えて“JOKER”になった彼は、デニーロの言葉でテレビに語りかけます。That's life.と。

ほんとの人生とは、笑いとは、不条理と悲しみを引き入れている、と。


あの京王線の犯人には、果たして命をかけてまで、真摯に求めるものがあったでしょうか。

彼が刺した人は、彼が尊敬してやまない人だったでしょうか。
おそらく何の面識もない、ただその場に居合わせただけの人でしょう。

映画のなかで、ホアキンが電車の中で数人のサラリーマンに絡まれるシーンがありました。
そのサラリーマンは女の子に振られてむしゃくしゃしていて、八つ当たりのようにホアキンを殴りました。

あの京王線の犯人は、まんまそのサラリーマンなんですよ。むしろホアキンジョーカーをいじめている人間の姿なんです。

だから、ジョーカーの仮装はしてますが、中身は真逆の、たんに悪魔の誘惑に負けている小悪人に過ぎないんです。

だから、どうか、ジョーカーの仮装なんかに惑わされて、この映画を貶めるような、これから出てくるであろう安い批評や言説に、どうか乗らないで欲しい。(例“ジョーカーは犯罪肯定の隠れ蓑だ”、等々)
この映画はノワールものじゃないんです。とても広い意味での喜劇なんです。

今後この国の地上波のテレビでも、堂々と放送して欲しい。

放送することで、「仮装はあくまで仮装にすぎなかったね、まったくジョーカーの気持ちがわかっていないね」と、あの犯人に教えてあげて欲しい。

ジョーカーは、最後まで人であろうとして、人を作った(お笑いをつくった)神と、たったひとりで一対一の対決を選びました。

京王線の犯人は、面識ない人を無差別に道連れにして、自分は人ではないことをタバコをふかしながら見せつけようとしました。
さながら「ピエロはわたしだ!」とプラカードを掲げて。

まったくの真逆。
ジョーカーの勇気が理解できる人は、こんな犯罪、犯さないんです。
“That's life.”という言葉は、諦観ではないんです。

ジョーカーを模した犯罪が起きようとも、それはただの暴動。
映画『ジョーカー』が素晴らしい作品であることは、微塵も毀損されません。
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