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三度目の殺人の1234のレビュー・感想・評価

三度目の殺人(2017年製作の映画)
5.0
(先ほどまで、わたしがフォローしている方と、コメント欄でやりとりしていたら、図らずもこの映画のレビューが出来上がってました。
感謝を込めて、以下に転載します。)

[以下転載]

是枝監督がほんとうに言いたいのは、「裁く」「裁かれる」と分ける行為自体が、じつはもう裁いてるのだ、ということだと思うんです。

たとえば、殺人が起きたとき、わたしたちはまず、犯人の「動機」を発見しようとしますよね。

ところが、この世界のほとんどの殺人は重盛の言うように、じつは「たいした理由もなく」起きてます。実際は殺人者も、殺人の最中は、自分の明確な動機がよく分かってません。

動機を「発見」されて、その動機と自分の行動が結びつけられて、はじめて「自分の動機を知る」犯人だっているでしょう。

三隅もそういう人物として描かれています。
彼は冒頭から「自分がやりました」と不思議とケロッとしてますよね。だから公判でも犯人性を争っていませんし、積み上げた「事実」を指摘されると「そうなんですか?」と本気で驚いている。
彼はどうも「事実」に興味がないらしい。重盛の父である元裁判官も、彼のその無頓着さを、不気味に思っています。

このお話は、サスペンス仕立てですが、「誰がどういう意図で」犯行したのかは、重要ではないんだ、と監督は言いたいのだと思うんですね。サスペンスは、ブラフなんです。

殺人を犯したのが、べつに三隅でも、咲江でも、重盛だったとしても、この話の筋にはまったく関係がないですよ、こう監督は言いたいんだと思うんです。
(だから、重盛は三隅と同じ仕草を最後で見せます。)

監督が伝えたいことは、相手と対面したときに、「裁く」「裁かれる」の関係から始めようとすると、人間として大事なものを見落とす、ということだと思うんです。

相手を捉えるには、面接のように「その人を判断する」のとは、別の視線が必要なんだ、と。

さまざまな凶行のあとに、三隅が十字を残すのは、通俗的な「裁く」「裁かれる」とは違う、「もっと前の段階で、わたしを裁いて欲しい!」という気持ちの現れですね。(だから裁判官を「憧れる」と言って、わざわざ事実とは違う、自分の空想の手紙を出しますよね)

それは、自分がこの世界に不慣れな存在、歓迎されない存在として刻印されて生まれたことに対する、言葉にならない、ひそかな原状回復の要求(俺には罪は無いんだ!)なんだと思うんです。

咲江が生まれつき片足が不自由な設定は、オイディプス神話を敷衍してるんだと思います。
生まれる前に占い師から「呪われた存在」とされたため、生まれてすぐ片足を傷つけられて、父王から捨てられたオイディプス(腫れた足)が、成長して故郷に戻り、父王を殺して、それと知らずに母親と近親相姦するおはなしです。

生まれつき「大地」とのつながりに難を持つため、世界との適度な距離が分からなくなった、社会に「不慣れな人物」の元祖ですね。

咲江が「飛び降りて足を傷つけた」と言っているのは、「わたしは生まれついて裁かれてるんじゃない。望んで選び取ったんだ」という意思の現れですよね。
自分の意思と違うところで裁かれるのが耐えがたいので、自分で刻印を名乗ってるんです。

三隅が「わたしがやった」と言って、十字を残すのと同じです。
「飛び降りた」とわざわざ言うのは、これも、わかる人だけに伝わるような、ひそかな原状回復要求(わたしには罪は無いんです!)なんです。


ただ、その、ひそかな原状回復要求は、三隅や咲江のような、生い立ちにやや難のある人たちばかりでなく、重盛のようにふだん暮らしているわたしたちも、気づかぬうちに発してるんですよ、こう監督は言いたいんだと思うんですね。

面会中に、三隅は重盛に諭すようにこう言います。

「だって…あなたがたは、いつだって解決してるじゃないですか。」

重盛は弁護士という職業柄、裁きの極点としての「死刑制度」のことを指している、とそのときに考えますが、三隅が覗いている世界は、もっと深いことが、話が進むにつれてわかってきます。

わたしたちは、毎日さまざまな場面で、「裁く」側に立とうとするか、「裁かれる」側に立たないよう振る舞おうとしますね。

「裁く側」になる者は「真実はこうだ」と言い張り、「裁かれる側」になる者は「真実と向き合う」と言います。
(メディアの世界は、とくに顕著ですよね。)

しかし、いちど「裁く」「裁かれる」の世界に入ると、そこには「まったく負債がない人間」がいない、と気づきませんか。

言いかえれば、「あなたはまったく罪なく生まれました」という状態がない。

わたしたちは「無知」の状態から、本を読んだり、先輩などを真似たり、お金を稼いだり、家族を作ったりしながら、だんだんその社会での振る舞い方を覚えて、次第に「社会の一員」となりますよね。

その「無知」だった状態を振り返るとき、大多数の人が、「社会で生きてれば、自分の欠けている部分を自覚して、補おうとするのは、当たり前じゃないか」そう考えますね。わたしもそう思います。

だから転じて、「無知なのは、いままで関係してこなかった君に責任があるのだ」と、とくにある程度の経験を積んで、自分から見て「無知」な人に出会ったとき、そう考え進む場合がありますね。

言いかえれば、いままで関係してこなかった「君に罪がある」、
その「罪を受け入れて我慢しなさい」「罪を自覚して贖う」ように、よくよく社会のことを知ろうとしなさい、という暗の要求です。

しかしその要求に対して、「いや、知らないものは知らないのだから、関係なんてそもそも取れるはずないじゃないか。わたしには罪は無いよ」と抵抗することも、実は出来るはずですよね。

自分には罪が無い、イノセンスだ。自分に関係してる部分だけでしか社会とコミット始められないじゃないか。
ダンゴムシのように丸まって自分を守る。誰もがいちどは心に抱く疑問ですね。

社会にコミットし始める理由は、
いままで社会に関係してこなかった自分に「罪の意識(わたしにはすべてが関係している)」をまず抱くことなのか
それとも
自分のなかの「イノセンス(わたしは関係ないよ)」をいつまでも譲らないで、わたしに関係する部分から社会に参加したいと表明することか。

今まで社会と関わってきたことのない人間(オイディプス王のように、社会に「不慣れ」な人間と言っていいですね)が、
「さあ、これからどう社会と関わろうか」と考えるとき、とくに持ち上がる問題ですよね。

そして人間はこの「負債あり」から始めるのか、それとも「負債なし」から始めるのか、じつは自分で選べると、思うんですね。

咲江や(北海道行きを決めてからの)重盛が抱いている考えは、「罪の意識(人は罪を抱いて生まれてきた)から考え始めたくない」という気持ちなのではないでしょうか。

「罪の意識(わたしには罪がある=はじめから関係がある)」を持つことから始めるやり方は、たとえば建物の二階に行くときに、玄関でなくて二階の窓から入ろうとする、じつは順序が転倒したやり方だと、思います。

なぜなら「罪の意識」から始めると、どうしたって真実が、自分の外からしかやってこないからです。

その最も象徴的な場面が、あの裁判官が取った「出来レース」のシーンですね。

検察、裁判官、弁護士が、目配せして、三隅の「罪」を決めました。

当初は「罪に向き合わせるべきだ」と主張してた女性検察官も、簡単にこの出来レースに転んでしまいます。

それは、彼女が犯人に「罪を贖わせる」という前提から、どうしても外に出られないからです。

「罪のない人間はいない」という前提に立つと、その「罪を明らかにする」(裁く)ことが目的になります。
すると「罪を見つける」付き合い方しかできなくなって、どうしてもその目的に沿った「真実」を外から呼び込んでしまう。「真実」はただの補強の道具にしかならず、結果として、少しの手詰まりで目をつぶって、真実を捻じ曲げてしまうんですね。

(tetsuさんはメディア専攻されてるとのことですので、敢えて付言しますが、わたしたちがふだんメディアで目にしてる場面に、とても似ていると思いませんか。

いまメディアで起こっていることは、「罪の意識を持つことから始める」という前提から出られない人々が、「裁かれる」側に立たないように先回りしようと、ただ陣取り合戦しているように、わたしには見えます。だから真実なんて二の次なんですね。あの「出来レース」と同じです。)

捻じ曲げられた「真実」に対抗するため、増強した「罪の意識(わたしはこれなら絶対に関係がある!)」でさらに武装するようになる。
この悪循環が続くと、どこか工場で生産されたような、よほどの強い刺激がないと反応すら出来ないような、クスリ漬けの人間ばかりになると思うんですね。それでいて人が犯す「罪」にだけは、異常なほど敏感になる、そんな中毒症状です。


人間が社会に参加するには、「罪の意識」を抱くことではなくて、じつは「イノセンス(わたしには関係ない)」の発露が出発点にある、そうわたしは思います。

言いかえれば、人は自分の欠けている部分に当然に向き合う必要があるだろう…けれども、向き合いながらも、ピンチのときには逃げ込めるアジール(聖域)を、いつでも持ち続けているのだと思います。

「罪の意識を持て!」という圧力に対して、しばしば「誰が生んでくれと頼んだよ!」という爆発であらわれますよね。

(話の筋から逸れる余談ですが、ついでとして。
近年なぜ「責任」に「自己」をつけているのか。
私見ですが、「罪の意識」から来る責任と、「イノセンス(わたし関係ないよ)」から来る責任を分けて考えたい、ごっちゃにしないでくれ!という隠れた欲求があるのだと思います。

ふだんから言い聞かされてるのが、「罪の意識」から来る、駅のアナウンスのような事務的な責任ですが、もっと自分に関係する部分で社会と関わりたいという隠れた欲求が「責任」の衣装を借りたとき、「自己責任」という、不思議なことばを生んでいるだと、わたしは考えます。

「罪を自覚しろ」と言う人の誰一人として自分を支えてくれるわけではない。といって「自分には関係ない」と反発すれば「一人で死ね」と言われて孤立する。
「自分には関係ない。でも孤立もしたくない」そこで、「責任」のヨロイを着つつ、「自分に関係ない」とは声に出せないので「罪を自覚しろ!」と言う人を叩くことで、「責任」に守られたつかの間の「連帯感」と「個人の自由」を味わう。

歪んだ自由ですが、それだけ「罪を意識しろ」といういたずらな要求が強すぎる、だから自分の身を守る必要があるんだ!と言われると、それも確かに一理あるな、と思えてしまいます。

ただ、ことばの生まれはそんな隠れた欲求でも、ことばの効果としては、自分で自分を縛るような効果(「一人で死ね」)しか出てないとも思います。ことば欲求とその効果の乖離がもたらす心理的なフラストレーションが、近年の異常なバッシングを生んでいる、とも考えてます。

また、自ら進んでアリ地獄に陥っているということですので、これ好機とばかりに「実を捨てて外面を取る」人びとへの抵抗力を、ますます失う結果しかもたらさないだろうと、思います。

応用すると、社会と「不慣れ」が明らかになるさまざまな場面(たとえば〝ひきこもり〟など)では、「社会とうまく関係が取れない」ことが問題なのではなくて、「社会と関係が取れないことに、場所が与えられていない」ことが問題なのではないでしょうか。
つまり「わたし、関係ないよ」と発語することがじつは「不慣れ」を解消する起点になっているという視点が抜けているのが問題なんだと思います。

少し粗いですが、「イノセンス(わたしには罪がない)」の発露を認められない、その圧力が、実はいじめや、テロの温床にもなっているのではないか、とすら思えます。
「生まれながらの罪」負債が、ありか、なしか。どちらから考えようとするのか。
シリアや、ロヒンギャの人々を引き合いに出すまでもなく、わたしたちにとても身近な現象ではないでしょうか。)

それはつまり、「君には生まれながらに罪がある」という圧力への、あの無言の原状回復要求が、高まっていると思うんです。


万引き逃れの「出来レース」をしたあと、重盛は娘に電話でこう言いますね。

「そばにいてやれなくてごめん。」
自分は「罪の意識」を、しっかり持ってるよ、というわけです。これは重盛の本心でしょう。

でも、その電話に娘は無言です。

娘の万引きを、重盛は「自分に構って欲しい気持ちがあるからだろう」と漠然と思ってますが、じっさいは違います。

両親の離婚というものは、子どもから、自分が生きてきた世界をひそかに奪います。

離婚を受け入れろと子どもに迫るのは、じつは「生まれながらに罪はない」というあのイノセンスを、子どもに認めないことを意味します。

じっさいの生活がどうであれ、父の言葉の出発点に、暗にイノセンスの否定が含まれていることが、娘のささやかな応戦を引き起こしてるんですね。

重盛の電話に無言なのは、イノセンスからの「わたしには罪がない」という、これもひそかな原状回復要求なんです。

ところが重盛の話は「罪の意識」から出ません。娘にとっては「そこじゃないんだよ!謝るとこは」という気持ちでしょう。

「謝るぐらいなら、来ればいい」そんな気持ちかもしれません。

重盛にも、娘との電話で、なにかがうまく伝わっていないな…そんなモヤモヤが残っています。


そのモヤモヤを、三隅は察します。

三隅は絞り出すように、こう言います。

「真実なんてどうだっていいんだ!信じるのか、信じないのかって訊いているんだ!」

言いかえれば、「たとえこの世のあらゆる権威のお墨付きの、100%正しい真実だとしても(神様が保証した真実だとしても)、それはわたしとあなたの間にある真実には、1ミリも関係がないんだ!」
ということですね。

「わたしとあなた」は、親と子に置き換えることも出来るでしょう。

「罪の意識(あなたには隠れた生まれもった罪がある)」の目線で眺められたら、わたしからは人間として生きられるアジールが消えている(「負債なし」の状態がない)。それは死刑になっているも同然だ、だからまずはわたしを信じてもらえませんか?というわけです。

これは、親の前で「涙を流すなんて、簡単だよ?」(真実をつくるなんて簡単だよ)と言ってみせる、重盛の娘からのメッセージでもあります。

「罪の意識」から始めると、何がまずいのか。
それは、あなたもわたしも、まるで死刑執行を待つ囚人のように、毎日「出来レース」を生きていかねばならなくなるからだ、と思います。

模式図として話すとすれば、
「罪の意識」という明るい蛍光灯が点いた小部屋のなかでは、「イノセンス(わたしには罪がない)」というロウソクの灯りが見えない。
だから、その蛍光灯のスイッチをいちど消してもらうことは出来ないのですか?

あの最後の面会で、こう三隅は重盛に頼んでいるんですね。


三隅の殺人のほんとの動機は、だれにも分かりません。

ですが、もし彼のことばにならない、ほんとうの動機を掴み出すならば、こうなります。

一方に「罪の意識(あなたもわたしも罪を抱いて生まれてきた)」から始めて、「罪」を贖いながら生きるのが人間だ、という要求がある。

それに対して、「いや、わたしにもあなたにも、共通なイノセンス(わたしには罪がない)の領域があるはずじゃないですか。」という抵抗がある。

その目に見えない対立を、抵抗できない咲江に代わって掘り起こしたのが、「二度目の殺人」。
咲江個人だけでなく、重盛という自分と関わりのない他人にも見える形にして、自らを死刑に追いやったのが「三度目の殺人」ということですね。

(三隅は重盛に、「わたしは手を触れると、その人の考えがわかるんです」と言いますよね。あれは超能力があると言っているのではないんですね。

分かる人には分かるものを、わたしは持っています、それを感じ取ってくださいね、と言ってるんだと思います。)

〝三度目の殺人〟は、いわば社会で「罪の裁き」に日々追われているわたしたちに、「人間のイノセンス(わたしには罪がない)」を保証するための自己犠牲なんだと思います。

「生まれながらに罪がある」、これは言いかえれば人間が生まれもった「原罪」と呼ばれるやつですね。
人間の原罪を、人びとの身がわりに背負って死んだとされる歴史上(?)の人物を、わたしたちは、少なくともひとり、なんとなく知ってますね。(YES)

だから三隅は殺人のあとで十字を残すんだと思うんですね。
殺人とは、三隅にとっては裁きではありません。「罪の意識(生まれながらみな罪がある)」の世界のなかに「イノセンス(わたしには罪はありません)」を、薄っすらと浮かび上がらせるための手段なんですね。

「煌々と明るい蛍光灯のおかげで、見えなくなってるロウソクの灯りがある。だから俺は、イチかバチか蛍光灯を消したんだ」
「ロウソクがちゃんと点いてるかどうかはわからない。だけど蛍光灯はいちど消す必要があったんだ。」

これが三隅の主張なんですね。

イチかバチか逃した一羽の小鳥、これが彼にとっては、点いてるかどうかを試した、一本のロウソク(イノセンス)なんです。
(だから独房で、外に小鳥を見つけて喜びますね。こうして浮かびあがる、彼にとってのようやく信じられる相手なんです。不器用ですねぇ。)

「あなたの死は、無駄にしないよ」という意味を込めて、小鳥や自分が殺めた人物に十字を背負わせている。
そして最後には、自分でも十字を背負う。

通常は、こういう殺人犯は、ある種の「愉快犯」として描かれますよね。(たとえば、映画「セブン」の犯人みたいに。)
ところが、三隅にはその十字を残す行為以外に、いっさい「表現」が見当たりません。彼のアパートも生活も見た目は普通そのものです。

三隅の気持ちに、裁判官として寄り添おうとした重盛の父は、とうとうその正体が掴めず、彼を「不気味な人間」と考えます。重盛の父ほどのベテランでも、あの女性検察官と同じく、「罪の意識」の外に出て考えられないんです。

ところが重盛は、それは違う!と考えます。彼自身、娘と上手くいかず、その原因を父との関係に見てるから、真剣なんですね。

三隅との交流を経て、彼はこう三隅に応えます。


重盛「三隅さん…あなたは、なんていうか、その…器…?」
三隅「はは。なんですか?その器って。」
重盛「いえ、なんでもありません。」


咲江は三隅を救うために、重盛に「二度目の殺人」の真実を話すと言います。

ところがその目論見は、三隅の「三度目の殺人」によって頓挫しますね。

咲江の行動も、三隅の行動も、相手を救うための「自己犠牲」と言ってしまえばそれまでですが、何かが決定的に違います。

重盛は咲江に諭します。

(どうしても真実を話すいうのは)「君が自分のためにしてることなんじゃないのかな?」と。


「罪の意識」から出られない世界のなかで、「裁かれる側」に回らざるを得ない人たちがいる。

それへの抵抗として、ダンゴムシのように丸まって身を守るあの「イノセンス(わたしには罪がない)」の発露がある、とわたしは言ってきましたね。

そして社会への参加の起点になり得るのは、「罪の意識(わたしには関係がある)」ではなくて「イノセンス(わたし関係ないよ)」だと。

すると最後にこういう疑問が残ります。
じゃあ誰もが「イノセンス」で身を守ったら、この社会は成り立たなくなるんじゃないか?

この疑問に答えているのが、〝三度目の殺人〟だと思うんです。

咲江は、「二度目の殺人」によって、自由になりました。それはつまり、咲江の「イノセンス(わたしには罪がない)」が、三隅によって救い出されて、発露したということですね。

しかしその「イノセンス」を咲江が自分の境遇の説明のために使うことは、三隅によって封じられます。

これは人間の「イノセンス」はその発露が重要だけども、決して本人の自由には帰属しないよ、ということだと思うんですね。

「罪の意識(わたしには関係がある)」と「イノセンス(わたしには関係ない)」は、入れ子構造になっているんですね。

ただのロウソクではなくて、あの蛍光灯の点いた部屋にある一本のロウソクなんです。

「罪の意識」だけでも大人な人間とは言えない。
しかし「イノセンス」だけでも自由な人間とは言えないんです。

「罪の意識」の円の中に「イノセンス」の円がある。そして、蛍光灯のスイッチを点けたり消したりしながら、両者を行ったり来たりすることで、少しずつ水と油が混ざっていく。

このどうしようもない入れ子構造を持って、まるで柔らかい体を硬い表皮で覆った昆虫のような存在が、社会を築く人間なのだ、ということを監督は言いたいのだと思うんです。

お風呂に入っていて、小さな風呂桶をゆっくり沈めていくと、桶の中に少しずつお湯が入ってきますね。そのとき一瞬だけ、その手桶の中に、お風呂とは違う世界が生まれるでしょう。

自分が浸かっているこの世界に、突然ポッカリと小さな穴を開ける、この手桶のことを、重盛は〝器〟と呼んだのではないでしょうか。

器自身は、なんの自己主張もしません。
ただ、滔々とした湯船に、一瞬、その人だけの別世界を作り上げます。

はたから見れば、どちらも単なる「湯船」にしか見えません。あの蛍光灯が点いた小部屋ですが、入ってる本人には、入れ子構造(蛍光灯とロウソク)の世界があるんですね。


難しく見えますが、じつは恋と同じですね。

見た目や性格、年齢や収入の条件などの、「恋すべき理由」(罪の意識)だけが常にあるわけではない。

だからといって、歌詞や恋愛映画みたいに「これが恋!」という確信(イノセンス)が、性欲のように、いつまでも変わらず横たわっているわけでもありません。

「これは恋なのかな?どうかな?」という、「誰もがきっと恋と感じるはずだ」という、揺れ動く本人の感覚しかない。この感覚は、決して目に見える形に出来ません。(器、としか形容できません)

でもその「はずだ」という不確かな感覚は、客観的な理由があるよりも、強いですよね。

理由など持たせたくない、とむしろその不確かさを、「恋」は持続させようとしませんか。

(わたしは、人間が「性差」を意識できるのは、その「不確かさを持続させたい」という気持ちに、どうも秘密があるような気がしてなりません。映画「君の名は」で男女が入れ替わったり、時間が逆行したりするのは、やはりそれで浮かび上がる「恋」があるからなんですよね。)

毎日スイッチを点けたり消したりしながら、その「はずだ」をだんだんと色を付けながら育てていく、それがどこかから去来する、つのる恋の感覚でしょう。

「罪の意識(わたし関係ある)」と「イノセンス(わたし関係ない)」の入れ子構造であること、それはつまり人間的であることなんだと思います。

「日本は硬直している」という論が大手を振って久しいですが、「ではどうすればいいのか」を考えるとき、「罪の意識」を持つではなく、「イノセンス」をことさら主張するでもなく、この「入れ子構造」(=「恋する感覚」)で考える必要がある、またそう考えられる土壌が日本にはたぶんにあると、わたしは感じています。
(「君の名は」という作品とそのヒットが、多くの示唆を与えてくれました。)

純粋さは、しっかりとした入れ子構造があってはじめて守ることができる、のかもしれなません。

あるいは、歴史学者の網野善彦に倣って、「イノセンス」を「無縁」、「罪の意識」を「有縁」と読み替えることも出来ますね。

「有縁」は息苦しいけど、ギリギリのセーフティーネットになります。
「無縁」は関係の途切れた自由な世界ですが、力を背景にした暴力装置に転じてしまいます。

「有縁」と「無縁」の二重構造が、必要なのだ、とも読み替えれますね。


長くなったので、まとめます。


監督は、はたから見れば同じに見えても、本人たちには違うように見える、それが人と付き合うということだ、とこの作品を通して伝えたいんだと思います。

そこで選ばれたのが人を「裁く」というテーマだった。

「裁く」「裁かれる」の関係では、「罪の意識(わたしははじめからこの世界に関係している)」が前提なので、「負債がない」人間がいない。

ところが「負債がない」状態、「わたし関係ないよ」から始めないと、人間からアジール(聖域)が消えてしまう。
すると人間は、「罪の意識」のなかで、死刑執行を待ちながら、弱肉強食の陣取り合戦に毎日明け暮れるだけの存在になってしまう。

咲江に「わたし関係ないよ」=「イノセンス」をもたらせたのが〝二度目の殺人〟

さらに、その「イノセンス」を自由に使うことを禁じることで、咲江と重盛に「罪の意識(わたし関係ある)」と「イノセンス(わたし関係ないよ)」の入れ子構造を植えつけたのが〝三度目の殺人〟

こうわたしは解釈しています。

(一部加筆)
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