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シン・ゴジラの1234のネタバレレビュー・内容・結末

シン・ゴジラ(2016年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

公開二日目に友人と映画館で観ました。

素晴らしい。
素晴らしすぎる。
庵野監督はほんとうに天才というほかありません。

ことばを発するのも畏れ多いぐらいですが、抑えられません。

この作品には日本人向けと、海外向けのふたつのメッセージをわたしは読みました。


ひとつは、これは「ゴジラ作品」というより、「ゴジラ」という未確認生物が、実際にいま上陸した場合の、日本のほうを忠実に描いた作品とみるべきでしょう。

前半では、未確認生物が東京湾に現れたときの、日本人に特有な「災害」反応と、官邸の人間性に重点が置かれています。

明らかに、原発事故あとの日本の様子や、責任者たちの動きや発言が、庵野監督により細かく忠実に再演されています。
(今回の対ゴジラ兵器が、あのときの放水車って…笑)

後半では、ゴジラ戦を巡った、したたかなアメリカの要求に、きりきり舞いになる官邸がメインです。
日米安保と安保理決議に基づき、あっさりと非情な決定がされたあと、真に日本を守るために闘い、独自の道を歩もうとする政府の姿が描かれます。

この映画への、自衛隊の全面協力ぐあいには、ほんとうに圧倒されます。東宝の底力を見ましたが、庵野さんの脚本に、どこか琴線に触れるものがなければ、ここまでの協力はして貰えないだろうと思います。

日本に、人道的に支援してくれるドイツ女性所長のモデルは、明らかにメルケルさんですね。日米だけでゴジラの機密情報を独占しようというアメリカの提案を反故にして、フランスなど各国に流したり、日本外交についても、随所で日本人に向かってメッセージが投げられています。


もうひとつのメッセージは、日本だけでなく、世界に向けられたメッセージ、
すなわち、原子力とは何か、という投げかけです。

日本を見限ったアメリカ研究団は、去り際に、「人類の叡智の炎を使うしかない」と漏らします。

この事態を予測していた「牧教授」は、放射能を無害化する研究をしていたとされ、ゴジラの生体構造図と謎の言葉を残して、船の中から蒸発しています。

船内の机の上には、宮沢賢治の詩集『春と修羅』が置かれていました。

「核の管理」する側は、原子力を、人間が手にした究極の叡智(「神の領域」と言っていいでしょう)と見ています。だから、人知を超えたゴジラには、叡智の炎で対するしかない。これはそのまま核の抑止力の根拠です。

ところが、牧博士は、人間もゴジラも、「修羅」の世界では同じひとつの現象だと考えて、核の管理者とは違う角度から放射能の研究をしているようにうかがえます。

ゴジラは水と空気さえあれば、核融合しながら生き延びることができる仙人のような生物です。
種を持たない孤高の生物で、かつ核そのものとも言えます。

人間が、ゴジラと同じ世界に生き延びるには、「核の管理」の枠を越えて、そもそも生物種の意識を拡大しなければなりません。

すると人間は、厚く着込んできたイメージを剥ぎ取られて、「動物」まで差し戻されることになります。

宮沢賢治は、おのれに感じ取った人間の強烈な自我を、どうにかして鎮めようとして、孤独のなかで数々の作品を書きました。

人間が「管理」しきれなくなった強烈な自我が、赤く燃える核を抱えたゴジラとなって、放射能を撒きながらこの世界に上陸してきた、そう牧博士は言うでしょう。

ラストでは、ゴジラの次の進化の様子が、しっぽだけに現れました。それは複数の人間の形に見えます。

その意図は断定できませんが、むしろ、ゴジラから新たな人間が生まれようとしているとも読めます。


なぜ牧博士は船中で消えているのか、また放射能で死んだとされる奥さんには、劇中で全く触れられないのか。

おそらく、彼の残した言葉とは、そのまま神の言葉なのだ、という意味だと思います。

神はいいます。

『私は好きにした。君らも好きにしろ』

わたしはこの世界にゴジラを創った。君たちはゴジラのいる世界で好きに生きろ。

「虚構で」神を模倣し、神を管理したつもりの人間に対して、神の領域からは、「現実に」新元素を備えたゴジラ(呉爾羅)が投げ返された。

キャッチコピーは『虚構対現実』ですが、虚構が「現実」に、現実が「虚構」に反転するところに、この映画は実りをみているように思います。

劇中で日本政府は、ゴジラを核で抹殺するのではなく、皆どこかで原爆の被爆国の威信を賭けて、ゴジラの停止に尽力します。
ここが、原爆投下されたおそらく日本人には共通に現れるであろう「人類の叡智の炎」に対する拒否反応、いわば人類の身体がもっている、核を超えるもう一つの叡智だと語っているように思います。

核を「互いの抑止力」にとどめる考えに疑いを持ち、その核を逆手にとって、「人類の自我を鎮める手段」にまで高める、そのための叡智ともいえるのではないでしょうか。

機内での石原さとみと米高官のやり取りも、そのほんの小さな縮図になっていましたね。
あの一見無駄に思える不自然なシーンは、庵野さんからの隠れたメッセージなんだと思います。

そして、東京駅でゴジラの「凍結」には成功したものの、次にゴジラがまた動き出したときは、直ちに原爆投下を受け入れる、というとても不安定な状態を「押しつけられた」まま、映画は終わります。

「せっかく崩壊した首都と政府だ。まともに動くかたちに作り変える」

「もはや日本は、いや人類は、ゴジラと共存するしかない」

「だがいまは辞めるわけにいかない。事態の終息には、程遠いからな」

戦後日本は確かにスクラップ&ビルドでのし上がりました。しかしその出発点で大きな見過ごしがあったため「好きにし」ようにも、「好きを通すのが難しい」(石原さとみ)国になってしまった。

東京駅の隣に、いつまた動き出すのかわからないゴジラが立っている。
その状態からでないと、新たに作り出せない世界がある。

3.11を体験し、この映画を観たあとの私たちは、もういま現実に、東京駅の隣に、いつまた動くかもしれないゴジラが、目には見えないけれども、堂々と立っていると考えて暮らさざるを得ない。

そうこの映画は語っているように思います。


この後、ゴジラが凍結された日本はどうなるのでしょうか。

竹野内豊は、戦後処理を担った吉田茂や白洲次郎のような、立派な政治家になると思います。

しかし吉田たちが原爆を落とされたことを不問にして、アメリカ恭順から復興の道を選んだように、竹野内はゴジラを天災とみなして、復興のための同情のシンボルとしてしか利用できないでしょう。話によっては、彼は「押しつけられた」ゴジラへの核攻撃も、やむを得ないと考えるはずです。

一方、長谷川博巳ならば、ゴジラが現実にいることをまず受け止め、日本を二度と被曝させないように、世界に核兵器の使用禁止を訴え、情報を開示して、ゴジラと共存する意識を持つよう、国民に訴えるだろうと思います。彼がラストで漏らす「事態の終息」とは、その道筋の先のことだと思います。

劇中でいう、解散総選挙のあと、決して排除出来ないゴジラを目の前にした日本人が選ぶのは、どちらの政治家でしょうか。

どちらが、日本のあるべき道と考えて行動するでしょうか。

人間はいつまでも、「ゴジラより恐い」のでしょうか。

出雲のスサノオが、強大な力を持つ八頭の蛇、ヤマタノオロチを酔わせるために呑ませた酒が、凍結作戦名の由来の、ヤシオリ(八塩折)酒ですね。

その後スサノオがオロチを倒すと、オロチのしっぽから、鋼の大剣が現れ、スサノオはその剣で東国を平定します。

得ると国興しが成るとされる「三種の神器」のその宝剣は、未だに行方不明とされています。

戦後日本から切捨てられた戦死した南国の日本人が、初代ゴジラを東京に向かわせていると考えると、今度のゴジラは自らを礎として、日本人に新たな日本を創らせようとして、東京を目指したのではないでしょうか。

意図はどうあれ、結果としてそうなっているので、今回のゴジラは、単なる破壊神ではないでしょう。

「国を守る」とは、国を防衛することだけでなく、共存を目的として(生物種の意識の拡大を含めて)国民の意識を変えることが含まれていることを、この映画を観たらば良く考えざるを得ません。
国を守るってホント大変ですね。


とんでもない情報量を、あの独特なテンポで見事に次々と弾き出してくれる、エヴァのスタッフ。エヴァの鷺巣詩郎と初代ゴジラの伊福部昭の音楽コラボ。エヴァを下地にしてるとはいえ、僅か数年でここまで細かくまとめ上げた庵野監督は、世界に冠たる監督だと思います。

日本兵として南方で負傷して、怨みを持って帰還した、初代ゴジラの芹沢博士は、放射能に怨みを持つ牧博士として、現代によみがえりました。

ゴジラシリーズの、最も進化した正統なゴジラと呼べると思います。

私の感想は以上ですが、いろんな方の感想が楽しみな映画です。気づいたことがあれば教えてください。

個人的には、「ゴジラ」とは何なのか、是非とも加藤典洋さんや、町山智浩さん、中沢新一さんなどの、きちんとした解説が読んでみたい。

あと、もう一度観たい。
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