このレビューはネタバレを含みます
公開初日のレイトショーで先ほど観ました。
スコセッシ渾身の力作と言えると思います。
「棄教」とは、外圧に屈することでも、内心を回心することでもない。
なにかを「信じる」ための心、そのものを棄て去ることだということ。
そして、「信じる」心を棄てる、その限りない苦しみが、実は最も深い信仰につながっていた、ということ。
キリスト教に縁が無くても、人生のなかでキチジローのように「棄教」を経験された方、また、いままさに「棄教」を迫られている方であれば、ぐっと心にのしかかる映画ではないでしょうか。
長崎奉行
「お前はわたしに負けたのではない。
日本という沼に負けたのだ。
われわれはお前を歓迎する。」
この奉行のことばは、実にわたしたちを苦しめるでしょう。
「パードレ」➖「信じる」心=「長崎奉行」(の下で生きること)
そう考えると、
「棄教」を迫られている「パードレ」と、
「棄教するなら歓迎するぞ?お前は私たちと同類だからね」と待ち構えている「長崎奉行」。
「踏み絵」を踏むことを要求する側が「長崎奉行」
要求される側が「パードレ」。
その現在の好古な例として、ふと思いつくものをいくつか羅列してみると、少し雑かもしれませんが…
「パードレ」→シリア反体制派
「長崎奉行」→アサド政権(の下で生きること)
「パードレ」→いまの新聞、メディアのコメンテーター
「長崎奉行」→現政権(の下でメディアを続けること)
「パードレ」→アイドル
「長崎奉行」→アダルト配給会社
「パードレ」→歌手、俳優
「長崎奉行」→AKB、所属事務所
「パードレ」→芸術家
「長崎奉行」→電通
「パードレ」→新入社員
「長崎奉行」→ブラック企業幹部
「パードレ」→自民保守本流
「長崎奉行」→日本会議
「パードレ」→自衛隊
「長崎奉行」→日本国軍
「パードレ」→脱原発
「長崎奉行」→核サイクル死守
「パードレ」→沖縄
「長崎奉行」→本土(米軍)
「パードレ」→イスラム教徒
「長崎奉行」→IS
…などと、
重ねてみてもう一度観れば、色々なことが見えてくる作品かなと思います。
(ほかにも思いつく「パードレ」と「長崎奉行」があれば、教えてください。)
「この場に踏みとどまろう(パードレ)」vs「みな一緒にラクになろう(長崎奉行)」
両者のあいだをへだてるのが「棄教=転ぶ」経験。
その見えない一線を、踏み越える行為が「踏み絵」というわけですね。
ほんとうに微細な違いですが、両者の違いは決定的ですよね。
しかしこの映画を観たからには、「棄教」したからといって、その人たちを「やーい転んだ外国人!」などと野次ったり、石投げたり、記者会見を開かせて晒し者にしたりすることが、いかに愚かしい行為か、よくわかると思います。
だって、「棄教」はまずなにかを「信じる」心がある人だけに起こる、しかも極めて個人的な出来事であるし、ヘタしたら毎日自分の身にも起こるのですから。
この作品が教えてくれるのは、「棄教」しないように抵抗すること、よりも、
もっと大切なのは、「棄教」した後に、その人がどのような人生を歩むかだ、ということでしょう。
「パードレ」は己を保つために、キチジローを軽蔑し、距離を置くことも出来たでしょう。(わたしはお前とは違うのだ!と)
しかし彼は、キチジローの告悔を、自分は非キリスト教徒とことわった上で、認めます。
「棄教」をした、つまり「信じる」心をいちど分断させられた、もっと言うと、魂を害された後には、二つの人生が、待っているのだと思います。
一つは、自分と同じように、「信じる」心を失いかけている(とみなした)人間を、そこかしこに見出しては、ひたすらヘイトして、見下しながら自分を保ったり、偽りのまがい物を「信じる」道。
もう一つは「パードレ」がそうしたように、沈黙してしまった「信じる」心を忘れずに見つめ、その沈黙の疼きを誰かと静かに分かち合いながら、少しずつ穴を埋める道。
とても、現代的な映画なんだと思います。
「信じる」とは、どういうできごとなのでしょうか。
ふと思い出したのですが、
『カラマーゾフの兄弟』に出てくる、イエスと大審問官の問答が、とてもこの映画の主題に近い気がします。
異端審問が盛んな頃のセビリアに、本物のイエスが現れて逮捕されるという、作り話ですが、大審問官が、深夜にこっそり牢屋を訪れて、イエスにこう言います。
なぜ神であり、どんな奇跡も起こせるお前が、ゴルゴダの丘で奇跡を起こさなかったのか、俺は知っているぞ、
お前は奇跡によって彼らに自分を信じさせたくなかったのだ。奇跡を起こしたら、みんな信じる。でもそれは「信じる」ということではない。
信じるというのは、何の証拠もないのに、自分のリスクで、信じることを選び取ることだから、そうお前は考えたのだ。
大審問官は続けてこう言います。
でもイエスよ、お前は人間を買いかぶりすぎた、そんな「自由なリスクありの信仰」なんてあり方に、人間が耐えられるものか。お前がそんなことをしたために、人間は大変な重荷を負うようになったので、われわれ教会の人間がいる。
われわれが、その自由を全部肩代わりして、千年以上も苦労してきたのだ。
それなのに、なぜ今ごろになってこの世に戻ってきたのだ?明日はお前を火あぶりにしてやる。
すると、牢の中のイエスが格子に顔を寄せて、大審問官にキスをする。
ぎょっとした大審問官は、牢を開けて、出て行け、二度と姿を見せるな、と言う…こんな話です。
自由な信仰とは、「何に対しての保証も無しに」、リスクの中で信じることだ、ということですが、この映画でも同じようなことが言われてますね。
奉行&沢野
「百姓がそんな自由に耐えられるものか!沼に根を張らせるようなものだ!
結局は手に余るそんな自由を押しつけるなんて、いたずらに百姓たちを苦しめるだけじゃないか!」
パードレ
「しかし、それでも止めることが出来ないのが、信仰なのだ!人は何の保証も無いのに、自分のリスクで、信じることを選び取ることができる生き物なのだ!
だから、声をあげずにはおれないのだ。否定することは、自らの死をも意味しているのだ。」
わたしは、なんとなく「自己責任でやれ!」と言う人の裏側に、「何の保証も無しに信じること」への戸惑いがあるな?と感じます。
「信じる」ことをすぐに「妄信」に結びつけてヘイトする人は、「信じる」ことが実は「何の保証も無い」ということを良く知っているからこそ、怖くて仕方がない、だから気づかぬうちに不安に火がついてしまうのだと思います。
「信じ」て行動する人をよく見ずに、紋切り型に落とし込むのは、自分の信じていることと折り合わないからではなくて、まるでキチジローのように、実は自分が何かを「心から信じたい」と渇望しているからではないでしょうか。
自分はいままでに、いろんなことを「信じて」きたはずだ。親、友人、恋人、規則、成績、学歴、バイト、会社、社会のルール…だからこそ、ばかみたいなことを山ほど耐えてきたし、明日もまた耐えて生きていく。
「踏み絵」を踏まずに耐えてきたはずだ。
だが、どこまでも、「沈黙」しかない。なぜだ。
あいもかわらず、世界中で不条理極まりない仕打ちが、横行する。昨日も、今日も、たぶんに明日も。なぜだ。
どんなにつらくたって、泣いたって怒ったって、どうにもならない。なぜだ。
「沈黙」のなかで、歳だけは取っていく。喪った時間は戻らない。なぜだ。
簡単なことだ、いままで「信じ」てきたものが、まやかしだったんだ。
こう考えつくと、たとえその人品に大きな欠点があると知りつつも、ただ単純に「沈黙」を破る者を、歴史は何度も呼び込んでしまう。市長や、ついに大統領にまで。
彼らは声高に叫びます。
「踏み絵を踏むんだ!それこそが自由な証拠じゃないか!みんな勇気を持て!」
「沈黙、沈黙、というけれど、どこに沈黙があるんだ?沈黙なんて、はじめから誰もしてないじゃないか!」
「皆さんまやかしに騙されずに、もっと『冷静に』オトナになって考えマショウ!」
そうして苦しんだ末に踏む人々を、恍惚として指差して嘲笑します。
「ほらみろ、さんざん小難しいこと言って、僕らを巻き込んでおいて、結局踏むんじゃないか!やっぱりまやかしだ!」
「沈黙、沈黙と言いながら、自ら沈黙を破るんじゃないか!?ブーメランだ!」
「君ら「パードレ」は、熱くなってるだけなんだよ」と。
周りで見る人は、「その通りだ」と言って、まだ踏むのをためらう人を、自虐的な、反自由主義な人だと、攻撃する。
なにかがおかしい、と思いつつも、自分の奥で、裏取引が成立してしまう。
ならば、神の沈黙をどう捉えるべきなのか。
「信じる」に値するものは何もないのか、あるいは「信じるに値するものは無い!」と声高に叫ぶ者を「信じる」べきなのか。
「棄教」を迫られて極限まで追い詰められた「パードレ」は、自分が神を「信じて」いるのでなく、リスクをかけて信じることを選んだ自分のことを、神の方が確かに「信頼」してくれていると、あの瞬間に悟ったのだろうと、思います。
それが、彼が極限の沈黙の果てに聞き取った、イエスの声だったんだと思います。この声は、声高に叫ぶ者とは違い、信じることを、何の保証も無いのに、自分のリスクで選び取った、彼だけに聞こえる、沈黙の中の微かな声でしょう。
「信じる」ということは、実は一方向の営為ではなくて、
こっちから「信じる」〜
向こうから「信頼される」
の双方向が出会うことで、1セットなのかもしれません。
だから人は祈るのではないでしょうか。
ただ単に「祈る」でなく、向こうからどこか「信頼されよう」と行動を起こすのではないでしょうか。
「〝自分を信頼してくれてる〟なんて、それは勝手な主観じゃないか?」と言われるかもしれません。
でもポイントは、「その信頼が正しいか正しくないか」ではなく、「主観が揺らぐほどの経験をしたこと」そのもののほうではないでしょうか。
主観は主観ですが、誰か他の人が混ざった主観を感じとることが、人間には出来る。
「神を無保証に信じることが必要」なのではなくて、
無保証に、自分のリスクで信じる人が、なにものかを呼び込むのではないでしょうか。
ただそれが同時にわかりやすく「神の名と呼び得る」というだけではないでしょうか。
「神」とは畢竟、人間に沈黙を確保するための、ひとつの場のことではないでしょうか。
万人に届くオンの声ではなくて、その人だけに聞こえるオフの声を聞くための、沈黙の場のことではないでしょうか。
そうして初めて「自分なりによくものごとを考える」ということが出来るようになるので、「信じる」ことは人間になくてはならないものではないでしょうか。
万人・万物に通じるように考えるのが、「行き」。
そしてそのあとで、自分にしか聞こえない声を聞くのが「帰り」。
「信じる」とは、その双方向が揃っている、いわば旅路のことを指すのではないでしょうか。
音楽家やアスリートを思い浮かべると、少しわかりやすいかもしれません。
「考える」こととは、自分のリスクで、無保証に信じたことが、その信じたものからほんとうに信頼される場所を、探る営為なのだろうと、わたしは思います。
とはいえ、いきなりやみくもに「無保証に信じる」なんて、カルト的に危う過ぎるから、わたしたちにまずできることは、先人や身近な人が残していった、身の丈にしっくりくる「考えるヒント」を、できる限りかき集めること。
それが、ほんらいの「勉強」、あらゆる「考えるヒント」を得ようとする行為を邪魔しないで初めて「教育」と呼べるのではないでしょうか。
「考える」ことは、法律や慣例などの「決まった答えを当てはめる」ことや、また「決まった答えを導き出す」こととも、明確に違う営為なはずです。
クイズのように「当てはめる」だけの「考える」は、必ず先細りするでしょう。答えるのは、その人でなくてもいいからです。
声高に「沈黙」を破る人は、真理を語っているのではなく、単に、「信じる」能力を失った人なのだろうと、わたしは思います。
彼らは「信じる」ことが双方向の営為であるとは考えないでしょう。自身の経験から、それこそ一方通行に「妄信」しているに過ぎません。
人を沈黙させるほどの力だけを。
劇中でパードレたちに棄教を迫る圧倒的な力を持つ人物、井上奉行のモデルとなった人物は、実は元キリシタンでした。
「踏み絵」が有効だ、などと考えるのは、彼のように、いちどキリスト教を棄てた人しか気づかないでしょうね。
キリスト教に無縁な日本人なら、「ちょっと嘘をつけばいいのに」と思うはずです。
宗教とは、信念とは、人間の生きる空間の「内」と「外」に風穴を開けるものなのだ、ということに気づかないと「踏み絵」など思いつかないでしょう。
いちど実際にキリスト教に帰依した人だけが気づくことだろうと、思います。
だから、そこまで気づく井上は、棄教するまでは、たいへん熱心な信徒であったろうと思います。
その井上の周りに、ずっとハエが、飛んでいましたね。
ハエは、旧約聖書で、土着の人びとが信仰していた神(エル神バアル神)を指すとされて、時代が下ると邪教神の象徴、悪霊の王の象徴になってきます。(ハエの王、なんて小説がありますね。)
作中で、井上だけが、ハエをまるで怖れるかのように追い払うしぐさをします。また、付き人をまるでハエを退治するように叩きますね。
「信じる」能力を失うと、周りの意にそぐわないものたちが、自分にだけまるで悪霊のハエがたかってきたように見えてくる。
そのハエが、実は自分の中から出てきたことを、心のどこかでよく知っているからでしょう。
信じるものからの応答を、拒否したー信頼を受け取ることを拒否した。
こうして、自分から一度切り離す決心をした「汚いもの」が、なにか思いもよらない、別の異形なものとなって再び帰ってきて、心をノックされることを、どこかで、とても恐れている。
そのため、ほんの些細なノイズに、過敏に反応してしまうのだろうと思います。こうして、身を護るために、クスリを打つように、権力を纏う…
結果いつまでも、何かに怯えながら、若い疑惑の芽を潰しながら生きなければならない、しかもそれを生きる糧にしなければならない、そんな為政者の末路を表していましたね。
井上はもう、パードレを棄教させない限り、心の置き場が無くなるので、安心が出来ないし、救いが無い。
かといって、頑なに棄教しないパードレに、ひとすじの光もどこか感じてるように見えます。
その板挟みが、彼に、後戻りできないほどの過酷な迫害とアクションを認めさせているのだと、思います。
あたかも、まず自分を説得して、奮起させているようです。
なんだか、ウヨクやサヨクと呼ばれる人の倒錯した在り方に、すごく似てる気がします。
また、そんなトップが目をつぶる仕草を見て、その下部役人たちが「お上のご意向」を忖度して、過酷な締め付けを行うのは、どこかの国の現状そのものに見えますね。
人は、たとえ独りで生きてゆけるほどの力を手に入れても、自分が切り捨てた過去から、そう易々とは自由になれない。
むしろもっと過酷な形で、その過去と向き合うことになる。
これが「原罪」というものでしょうか。
信じるものなどない、というのは、どこまでも、子どもじみた強がりに過ぎないのかもしれません。
信じることが、いつまでも信頼されることに出会わないと、だんだんと考えることが出来なくなる。
すると、決められていることや、居場所をあてがわれたまがい物に、救いを求めるように「当てはめる」ことしか出来なくなって、次第にそれが「考える」ことだと思い込むようになる。
他人が信じているらしいものと、見比べて相対的にしか、自分が信じるものが見えなくなって、奉行や沢野のように、「共感対象」と「差別対象」の絶え間ない苛烈な仕分けを、自分の中に呼び込むことになる。
「信じるもの」が無くなるのでなく、「信じるとはどういうことか」がわからないー「信じるための心」そのものが無くなってしまう。
最後には、無保証に「信じる」ー「信頼される」の双方向でほんとに「考える」人たちを、「贅沢だ」「特権的だ」と、憎むようになり、「信じるのは自己責任だ」と罵るようになって、ますます「考える」ことが出来なくなって泥沼にはまってゆく…
こうして、しだいに花が咲かなくなり、同じ顔の「名無し」の葦しか生えなくなる。
それが、「沼」の正体だろうと、わたしは思います。
後世の日本人に、いつまでも、「日本は沼なのだ」とは思わせたくないですね。
ここまで書いて、蛇足かもしれませんが、ひとことだけ…
…いまの日本のメディアは、こぞって「沈黙」を破ることを、自らの仕事としているように見えます。
その果てに、声高に叫ぶ奉行の前に「棄教」をしている最中に見えます。
「棄教」そのものは仕方がないことだと思います。大事なのは、その後です。
偽りのまがい物がのさばるのを、横目に見過ごすのは、沢野のようにそれを「信じて」いるのと同じことでしょう。
メディアの本来の仕事は、先を争って「沈黙」を破る、単なる「にぎやかし」ではないはずです。
メディアの仕事は、社会で「自分のリスクで無保証に信じて」生きる人が聞いている沈黙の中のかすかな声〜「信頼」〜を、まるで教会の倍音のように響かせることではなかったでしょうか。