Solidarity

ファニーとアレクサンデルのSolidarityのレビュー・感想・評価

ファニーとアレクサンデル(1982年製作の映画)
5.0
権威主義は空想力を嫌う

この映画は始まりから芸術的で高級感が漂う。素晴らしいキャストに高級な絵画や調度品や衣装とその色彩の美しさが花を添える。それでは物足りないと言わんばかりに物で溢れ返る光景は異常だが整頓されていて妙に美しい。広々とした部屋に灯された蝋燭の数の多さには息を呑む。そんな環境に身を置く10歳のアレクサンデルは孤独だった。それは彼が自分の霊感の恐れから生死の探究を余儀なくされていたからである。空想家の彼を取り巻く裕福な俳優一家エクダール家の人々が抱える問題には人に関わる真善美聖健富の全てが内包されていて興味深い。アレクサンデルはそんなエクダール家とそれに纏わる人々の有り様を冷静な目で観察し品定めしながら母への失望と権威主義者の権化である義父への反抗や敗北と成就などを通して生死の真実に迫ろうとするが答えにはたどり着けない。ただ救いはあった。

この5時間に及ぶ長編映画はその過程をある場面では演劇風にある時はドラマ風にもしくはオカルトチックに描いて観客を飽きさせない。観客はいつの間にかアレクサンデルを追体験して生死の真実を突き付けられその探究から逃れられなくなってしまう。

アレクサンデルが最後にたどり着いた救いの先はエクダール家の家長である祖母ヘレナの膝枕であった。アレクサンデルが彼女を選んだのは彼女が人として全体的に調和のとれた人物だったからである。

エピローグでヘレナはアレクサンデルに語って聞かせる。

どんなこともあり得る何でも起こり得る時間にも空間にも縛られず想像の力は色あせた現実からー美しい模様の布を紡ぎ出すのだ・・・

ベルイマン監督は劇中劇に映画からの引退をさりげなく忍ばせている。(雨は降る降る いつも降る)は映画フィルムの傷のことじゃないかと自分勝手に思っている。

おいらが 子供であったころホイサ 風吹き 雨が降るいたずら 笑ってすまされた

(雨は降る降る いつも降る)

おいらが 大人になったときホイサ 風吹き 雨が降るどろぼうたちは 閉め出しだ

(雨は降る降る いつも降る)

おいらも 女房もったけどホイサ 風吹き 雨が降る威張ってみても 食えやせぬ

(雨は降る降る いつも降る)

おいらは やがて寝たっきりホイサ 風吹き 雨が降る酒飲みゃ やっぱり飲むだけさ

(雨は降る降る いつも降る)

この世のはじめは 昔の昔だよホイサ 風吹き 雨が降るこれでやっと 芝居も終わり

おいらは いつも笑わせる
Solidarity

Solidarity