ちょげみ

劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦のちょげみのレビュー・感想・評価

4.3
古くからの因縁『烏野高校』vs『音駒高校』の対決を描いた作品。

誰もが待ち望んだ待望の対戦カード、満を持して実現!感慨深いものがあるなぁとしみじみと感じながら映画館にいそいそと足を運んだのだけれども結果としては大満足のクオリティの映画だった👍👍👍

魅力的なチームは数多くあれど、やはり(烏野高校を除いて)一番好きな高校を答えろと言われたらいの一番に音駒高校が候補に上がってくるんじゃあないのかな。

チームとしての体をなしてからまだ日が浅く、完成度としてはまだまだながらあらゆるものを吸収する気概を持つ「雑食」の烏野高校に比べて、
全国区でも通用する選手はいないながらもその粘り強さと堅実さで今の地位を気づいている音駒、攻撃全振りの烏野に防御力マックスの音駒、さらに各校の高校名をとり「烏と猫」と形容されたりもするように、あらゆる面で正反対でわかりやすく対比されている。


そして各チームで中心を担う日向と研磨もあらゆる意味で対照的だ。

日向はこの作品の主人公だけれども、研磨は分かりやすく裏の主役の座を担っている。
彼らを待避する上で一番異なるのはバレーボールに対するスタンスの違い。

日向は小さい頃テレビで見た小さな巨人というわかりやすい「憧れ、目標」を持ち、彼みたいなプレイヤーを目指すべく日々の練習に没頭するバレーボール大好き人間だけれども、研磨は幼少の頃に黒尾に誘われたことが契機にバレーボールを始めただけの、バレーへの情熱をそんなには持ち得ていないゲーム好きの穏やかな人間。
一番わかりやすい違いはバレーに対して、部活に対して積極的か消極的かということかな。

他にも挙げればキリがないのだが、ともかくあらゆる面で正反対な二人だけれど、今作は裏の主人公である研磨の視点からVS烏野戦を描き、彼がバレーに対して最終的に下した判断というか、主観的な意味づけで終わる物語となっていた。

これがまた心にグッとくるようなラストなんだよなぁ。


試合の後の研磨の表情からは、充実感、はたまた幸福と言い換えてもいいかもしれないけど、それは必ずしも快い時間が不快な時間を上回ることではないという貴重な教訓を授けてくれたし、彼が青春のほとんどを費やしたバレーボールとその年月の重みをまざまざと感じさせてくれた。
それと同時に自分が高校時代がむしゃらに取り組んでいた部活っちゅうのをあの笑顔で持って全肯定されたような気がして胸がじーんと熱くなったなぁ。

辛い練習も悔しい思いも、今の自分を肯定することができたら結果的には全ての過去を肯定することができる。
研磨が半ばいやいややっていた練習はあの瞬間の笑顔で全て肯定され、彼の中でバレーはかけがえのない思い出として蓄積されていくんだろうな、、、。
研磨の成長譚とハイキュー全体を包み込むテーマがギュギュッと濃縮された本作、文句なしの名作でした。


〜〜〜〜〜〜
「僕は人生をゲーム感覚でとらえています」と、随分と夢のある生き方をしている人がいるけれど、この考え方、人生哲学というのを元ゲーマー、または幼少期の頃にゲームにのめり込んでいた経験を持つ人が持ちやすい。(のかもしれない)

これはどこかの記事で読んだ雑学なのだけれども、幼少期の頃にポケモンにのめり込んだ経験を持つ人は数百種類のポケモンを区別するのに特化する独自の脳機能が発達しているらしい。

子供は何色にも染まりやすい、という言葉があるけれども、それは脳がまだ何も入っていない生まれたてほやほやの状態だからこそ、何色にも変えようがある、みたいな意味であろう、多分。

ポケモンは一地方につき150匹くらいいるわけで、五地方では単純計算で役800匹。
自分も全国の少年少女たちの例に漏れず、少年時代にはポケモンを熱中してプレイしていたけれども、今もなお1000匹近いポケモンの名前と特徴を覚えている。
考えてみればこれは並大抵ではない凄技なのでは、と思わなくもないけど他の例として私たちは膨大な数の単語を操っているわけで、そう思うと対したことはないのかなぁと意気消沈する。

それはともかくとして、幼少期の頃に脳に植え付けれれたポケモン的要素、ゲーム的要素はその後の人生に大きな影響を及ぼし、自分の最も根本的なことに関わる部分、いわゆる意識、思い、人生哲学を決定する時に一番最初に参照されること、なのかもしれない。

だから何なのという話だが、実は本作の主人公の研磨がまさにバレーをゲール脳的に捉えているのだ。

作中で度々登場する研磨のゲーム脳的な考え方が露呈するシーン。そのいくつかを私の意訳という形でで抜粋する。

「死にかけの自分を操って強大な敵と戦っている時に心のどこかでおもっている「まだ死なないでくれと。」

「ゲームオーバーよりゲームクリアの方が悲しい。」

「楽しいままでいてね、しょうよう(with激こわスマイル)」

特にポケモンやドラクエなどのゲームをやっている時に上記のような思いを内包しながらプレイした人も多いのではないだろうか。
基本雑魚敵を倒してレベルアップしてボスに挑む、という構図のため、強大な敵を倒すための安全策として、ボスよりもレベルを高めにあげてから挑む、というものがあるけれども、研磨の言動を見るにおそらくこの行動はとらないんじゃないかな。

ボスよりもレベルが優に高いというわけではなく、かといって無謀というほどでもない適切なレベルで戦いに挑み、自分の持ち得る戦略、戦術、アイテム、状況、全て駆使して、ギリギリの駆け引きの上でバトルに興じる。

いよいよ戦いも佳境に入ってきた頃、ピリピリとした緊張感の中、敵と対峙している自分の状態に一種の高揚感と浮遊感を感じ、このまま一生この戦いが続けばいいのに、、、とまるで少年漫画の主人公、または戦闘狂みたいな事を思う、みたいな。

このような経験は誰しも抱えている(し抱えていないかもしれない)ものだろうけど、研磨はその経験、思考法でバレーボールという競技のセッターを務めている。

一セット目で相手チームの情報、大まかな特徴を集め、敵のストロングポイント、ウィークポイント、核となる選手や攻撃の特性を分析し、どうすれば敵の最大攻撃を無効化できるか、という戦術を立てる。
コートの12人、控え選手までもを考察対象にし、自分の持てる力の知恵を駆使し、盤上の駒たちを効率よく操り、敵陣を詰ます方法を絶えず考え続ける、みたいな事を烏野戦でも繰り広げていて、それは日向のブロード潰しという戦略に帰着する。

そして、無事日向を無力化することに成功するのだが、成功したのにも関わらず研磨は不満たらたらの虚無顔に陥いる。
それを側から見ていた黒尾に「...たくっ。自分でチビちゃんをはめといて...何ちゅう顔してんだよ。。、」
と言われてしまう。

そこにまさに研磨のゲーマーとしての性というか、人間性が如実に現れている。

自分の立案した作戦によって敵を瀕死寸前まで追い込むことに成功したのだが、心のどこかでは、というか本心では敵が自分が予想もつかない復活をして、再び強大な敵として自分の前に立ちはだかってくれることを望んでいる。
自分ができる限りの力を振り絞って、渾身の力で投げ下ろした雷をものの見事に跳ね返し、また自分をワクワクさせてほしい。まだ自分と戦っててほしい。終わりなき戦いに身を投じていたい。

敵を完膚なきまでにやりこめる作戦を実行した一方で、敵には自分の立てた作戦など、意に介さないというばかりに何度でも復活してきてほしい、という目的と反する感情が雪崩のごとく押し寄せてスパークを散らしている。

そんなアンビバレンスな感情があの時の研磨の胸中で漂っていた感情であると思う。

そして研磨が一番望んでいたこと、さらには日向が一番研磨に与えたかったものはその先にあった!!!
それは彼らの出会いにまで遡る。研磨と日向と初対面においての問答、「バレーを楽しいと思えるか否か。」という日向からの問いに別に、と答えた研磨。
彼の返答に窮した日向がいった、「バレーを楽しいと言わせてやる。」というセリフ(いや、このセリフはかなり後かな。)

かくして、研磨と日向の到達目標は一致し、日向には研磨に、彼の戦略、戦術のその上にまで進化して、研磨にバレーを楽しいと行ってもらう、というのが最優先課題として設定された、というわけだ。

試合の当日(かな?)、黒尾が研磨に言った、「チビちゃんはお前に本気で勝ちにくるぞ。」という言葉の真意はそこにあるわけですね。

時を戻して試合の最中にて、日向は研磨の思惑を飛び越えることに成功し、二人は、いやさコート上の12人は死力を尽くし、足もガクガクでまともに視界も晴れない中、限界まで跳び続け、最後はスリップでボールを落とし、試合をした時。研磨は心の底からバレーを楽しむことができた。
研磨が「たのっしいぃ。。。」というシーンと、試合終了後に黒尾に「バレーを教えてくれてありがとう。」というシーンはほんっとうにええシーンよなぁ。
涙腺崩壊しますわぁ。。。


だからゲームにのめり込んだ経験が
これは
研磨を視点に物語を展開したことによって、
主人公の日向視点とは異なる価値観、考え方、バレーの楽しみ方というのが

バレーボールに限らず、あらゆるスポーツ、遊戯というものは決められたルールの中で勝利条件のもとに向かって死力を尽くし、知恵を振り絞って、持てる力の全てを使って勝利を目指す、というものであり、バレーボールの勝利条件は究極的に言えばボールを自分のコート内に落とさないこと。

となれば、勝利に向かってするべき行動、練習、その最適解というものはある程度固定化されたものであり、各キャラクター達はチームの方針のもとで動くことが決定づけられている。

当然毎日他のチームメイトと同じような練習に取り組むため、最終的なステータスは個々の能力や才能の違いは決まる、と思われがちかもしれないが、ここには一つ
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