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チネチッタで会いましょうのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

チネチッタで会いましょう(2023年製作の映画)
1.5
[自虐という体で若者に説教したいだけのモレッティ] 30点

2023年カンヌ映画祭コンペ部門選出作品。ナンニ・モレッティ長編14作目。カンヌでの上映前にイタリアで公開されており、その時は結構評判が良くて驚いたのだが、カンヌでは案の定けちょんけちょんに貶されていた。映画は映画監督に扮するモレッティが新作映画の準備をしているシーンで幕を開ける。1956年ハンガリー動乱の時期に、イタリア共産党クアルティッチョロ支部に招かれてローマに来たハンガリーのサーカス団の物語らしいが、開始5分で"イタリアに共産主義者いたんですか?!"とか言うアホな若いスタッフにモレッティがドヤ顔で説教を始めるのでもう観る気がなくなってしまった。ウディ・アレンやフェデリコ・フェリーニを引用しながら、わざとらしく『監督ミケーレの黄金の夢』と同じブランケットを被ったり、『親愛なる日記』のベスパ疾走みたいに電動キックボードに乗ったり、過去作に登場していた俳優を連れ戻したりすることで、せっせと集大成アピールだけはしてくるのだが、自分を演じることに批評性を兼ね備えた自虐的なコメディという過去作で見られた自己像は完全に消え失せ、単に現状に不満を抱えて喚き散らす不快で醜悪な老人の映画にしか見えなかった。自虐もここまで来てしまうと承認欲求の裏返しという感じが色濃く反映されちゃうだろ。妻パオラが製作者となった若手監督のアクション映画に"君が撮ろうとしてるシーンは映画を傷付けている"とか文句を言い始めて、自身の意見を正当化するために知り合いの著名人たちを色々登場させるシーンとか(最終的にマーティン・スコセッシに電話しようとする)、まさに"若い子にはついて行けねえ"系老人の表象なのだが、その皮を被って自虐的に批評するというよりは、その皮を被って自虐的に批評する体で言いたいことを言ってるだけに見える。調べてないけど絶対マーベル映画に文句言ってそう。『殺人に関する短いフィルム』こそ本物の暴力だ!と説教するシーンは、マジで質の低い映画飲み会とかでありそう。あと、Netflixとの会談で意地悪く"190カ国"を強調させ、開始5分で観客を掴めと言わせ、肩をすくめながら"それだとアート映画は成立しない、これだからNetflixは…(ヤレヤレ)"みたいな態度を取っているのも厭らしい。とどのつまり、モレッティにとって"明るい明日"というのは未来を軽蔑する反動的なノスタルジーということだ。似たようなテーマを持ったビクトル・エリセが外れてこれがコンペ入りしたのは、お友達接待に終止するカンヌの姿として実に象徴的だ。

そんな夫に嫌気が差した妻パオラは別れを切り出す。すると、映画自体も感傷的な方向へ舵を切り始め、映画内映画にも影響を及ぼし始める。感傷的、というか"どうせ誰も俺を必要としてないんだろ?!"的なヤケクソの裏返しか。どうも妻とよりを戻すための表面的な妥協という感じがしてくるのは、やはり前半でヘイトを溜めすぎたせいか、単に私がモレッティ嫌いなだけなのか…なんか、誰も話聴いてくれないのかな。途中から哀れになってきてしまった。
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