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PERFECT DAYSの小径のレビュー・感想・評価

PERFECT DAYS(2023年製作の映画)
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沈黙に含まれる無限の世界。
底抜けの明るさ、無限の暗さ。
その沈黙に含まれる分からなさを受容することが唯一の理解であり、相手への敬意だと思う。時として言葉を通して語られることで何かが抜け落ち、損なわれることを感じる。

孤独であることは尊厳でもあり、相手の孤独を受け入れる一点でのみ互いを理解することができるという逆説。理解しないことが理解である側面。

女性たちは自分が損なわれることの無い世界に自分を託す。音楽、文学、場所、抱擁、口づけ。それらを通して沈黙のままに行われる対話は私たちを無言のまま繋げてくれる。それぞれが損なわれない完全な状態で、孤独のままに繋がれる。


ただそれ以上でもそれ以下でもない沈黙の世界に私を託す。孤独はある意味で最もあたたかく、親密なものになりうる。

それは現実の直線的な世界の時間の流れとは違っている。もっとおおらかで、全ての可能性が含まれた場所。

現実の世界は私がどれだけ失われ、取り残され、傷つこうとも、無慈悲に前に進み続ける。直線的に刻刻と進み続ける。それにわずかにでも抗えるように、今を刻む。私がたしかに生きているのだと。無限で完璧な今を刻もうと。自分を沈黙の世界に託す。吹き飛ばされてしまわないように。嵐の中で木にしがみつき必死に抱き合うように。沈黙の抱擁を交わす。
平山さんは沈黙の世界とを繋ぐ番人のようなものだろうか。その世界は図書館みたいに全ての可能性が損なわれず存在する時間の観念がなくて、ただあなたとわたしがいるところ。完全な世界。そういう場所が生きている場所の下に流れていることが平山さんを通してわかる。癒される。そしてもとの傷つきやすい世界に女性たちは帰っていく。(平山さんは限りなくその中間にいる気がする。)

でも、孤独が変えがたい完全な理解を与えてくれるものだとして、実際の世界で生きてることに変わりは無いから。泣きたい時があることに変わりは無いけれど。ひとりぼっちはやっぱり寂しい。

平山さんの寡黙がそうであったように、
この物語の寡黙の余白が見る人の心の形に寄り添うことを可能にしてくれる。
私自身をも物語に引き入れてくれて、孤独を分け合う平山さんと女性たちの癒しの過程は自分事のように感じる。


映画館でそういうことを体現できたことも素敵な体験だった。
それぞれ無言のうちに席について、映画を見る。ばらばらに散らばったものが、映画のもつ引力に引き寄せられて、ただ、いまこの一点で奇跡的に集約する感覚。孤独が孤独のうちに結びつく感覚は自然な力をくれる。無言のうちに見届けられること。そういう繋がりを潜在的であれなかれ、求めている人がいることを感じて、私自身が回復する。映画も私もみんなも分裂しているけれど、誰かがそこに物語を見出してくれると思えると気が楽になる。

でもやっぱり寂しくなって泣きたくなった。


こんどはこんど、いまはいま

ただ、いま。
ただそれ以上でもそれ以下でもない。
完璧な世界。

私が映画をみるときに大事にしたい感覚そのものであり映画を見る意味だった。かげ。物語に私を託して。
この場所があるから、私は日々頑張ろうって思える。
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