KnightsofOdessa

マグダレーナ・ヴィラガのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

マグダレーナ・ヴィラガ(1986年製作の映画)
4.0
[私を見て、私はここにいる] 80点

ニナ・メンケス長編二作目。『The Great Sadness of Zohara』から『Queen of Diamonds』『The Bloody Child』へと続く緩い四部作の第二篇。ガートルード・スタイン『小説アイダ』にインスパイアされて製作された一作。冒頭で主人公マグダレーナは既に収監されている。彼女は看守に対して"自分が今いる場所が好き"としつつも"私はここにはいない"と言う。そして、映画は彼女がここに至るまでの記憶を探り出す。彼女はシャバでは娼婦だったが、娼館から一歩も出ず、毎日のように仏頂面で客の相手をしていた。執拗な映像の反復と幼稚な言葉遊びのような言葉の反復、この時点で既に囚われているかのような閉所恐怖症的空間によって、時間感覚は曖昧になり、マグダレーナ基アイダの身体を通して男たちの加虐性とアイダの内向性が浮かび上がっていく。彼女は客を殺した罪で逮捕されるが、時制が曖昧なので逮捕されているのか、そもそも殺したのかすら曖昧で、寧ろそれよりも彼女の内面での葛藤に重きが置かれている。娼婦仲間、他に殺人を犯したかもしれない女性などを"我々は同じ親から生まれてないだけの姉妹だ"と連帯したり、"彼の言う通りにはならない"と自己暗示を掛けてみたり、それらの葛藤は冒頭で提示される"紅海を渡る物語"、つまり虐げられているエジプトから約束の地カナンへの旅と結び付けられ、セックス中に天井を仰ぎ見て聖堂のキリストを垣間見るような"目覚め"のショットなどキリスト教的イメージによって紡がれていく。そう考えると、後の"血塗れの豆サイズの赤子"的なものを掌に乗せたアイダと関連付けて、彼女がマグダラのマリアであると見ることもできるのかもしれない。とはいえ、牢獄と娼館という二つの監獄を逃れる手段として希望的にキリスト教を扱っているわけではなく、"魔女になるには、私は魔女だ、と三回言えばいいと女性たちが言ったのは冗談ではなかった"として、こちらの男性優位的な側面を糾弾している。寄る辺なき孤独とそれに反抗する連帯と魔術的に謳う一作。
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