ささきたかひろ

ザ・ホエールのささきたかひろのネタバレレビュー・内容・結末

ザ・ホエール(2022年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

すべてのケースに当てはまることではないが、過食嘔吐は自身のあらゆるコントロールを喪失してしまった状態の人々が、かろうじて制御を実感できる瞬間でもあるそうだ。必要以上に食べ自らを危機的状況に追い込んだ後、嘔吐する。かいつまんで言えば自らの制御下において危機的状況を発現し、自らの決断で回避を試みる。

つまりそれは普通に生きていくにはあまりに辛い不可抗力的な喪失の体験(トラウマ的体験)の再現でもあり、為し得ることの出来なかった喪失の回避をひとときだけ味わうことが出来る行為でもある。つまりは自らの「存在確認」のための行為でもあるのだ。

チャーリーの場合これらの代償行為で得られた「ひとときの心の平安」は、気がつけばおぞましい脂肪の塊と首の皮一枚でつながった離別した家族との「希薄に見える関係性」として残酷に突きつけられる。

優れた映画とはすべからく「おとぎ話」であると私は思う。生のエピソードだけでは「映画」たり得ないと思うのだ。したがってこの作品におけるチャーリーの「おぞましい容姿」は前述した彼自身の「傷を傷で隠し忘れる行為」が降り積もった事実をシンボライズしたものであるし、残酷にも自己憐憫に溺れた彼が「後回し」にしてきた事柄が降り積もってできた歪なオブジェのようでもある。

斯様なチャーリーの容姿は否応なしに私達の無意識のルッキズムを問いただす。そして「自らの人生の最後の5日間」を賭けて和解と継承を試みようとした「邪悪な娘」一人娘エリーの聞くに堪えない父親への過去の悪行の叱責と罵詈雑言は、安易にチャーリーを聖人たらしめない仕掛けとして非常に有効に機能しており、ダーレン・アロノフスキー監督の一筋縄では行かないリアリズムの真骨頂を見た気がする。

死期が迫るチャーリーが咆哮した「人生で1つだけ正しいことをしたいんだ」という言葉。それは闇の中ですべてを否定して生きている一人娘エリーの掃き溜めの精神の中に、二人を親子としてつなぐ「文士としての才能」を確信したチャーリーが自らの残り僅かな命を削ってでも為し得たい「継承」でありエリーの「病んだ魂の救済」だった。

些細なすれ違いから放置され、干からびてカビが生え膿んだ「父と娘」の関係をダーレン・アロノフスキーは丁寧に辛抱強く、時には荒っぽく引っ剥がしていく。そんな腐臭を放ついびつな玉ねぎのような二人の関係の辿り着く先は一体どこなのか?ダーレン・アロノフスキーにしては拍子抜けするほど王道の展開で物語はクライマックスを迎える。(意外にもダーレン・アロノフスキーのベストムービーは黒澤明の「用心棒」なのだそう!)

まばゆい光に包まれたラストシーンに流れる曲のタイトルは「God’s Rays」すなわち「暗雲の切れ間から差し込む一筋の光」でありそのまま「神の光」でもあるのだろう、あまりにも率直なタイトルにキリスト教的な救済のビジュアルを想起せざるを得ないが、果たして救済されたのはチャーリーなのかエリーなのか観衆なのか。もしかすると劇中「人は人を救えない」と繰り返されたように救われたものは存在しないのかもしれない。

映画とはありえない事が起こる「おとぎ話」だし、架空の時間を編集した時間芸術だ。だがそれを体験している私達は「始まりと終わり」が存在する直線的な時間の中にいるわけだから、映画を見ている間の感情の落差が大きければ大きいほどカタルシスを感じることが出来るのだ。その意味で大変に見応えのある作品であったし、主演のブレンダン・フレイザーの熱演は作劇を超越した人間の悲しい業を、自身のキャリアを賭けて演じており私は衝撃を受けた。

最後にダーレン・アロノフスキー監督が雑誌ポパイのインタビューでこの映画のテーマを非常に簡潔に表していたので紹介したい。

「本の中身はカバーで判断してはならない」
ささきたかひろ

ささきたかひろ