ここにいてここにいない、といった実存的な問いが現れるのは、マグダレーナが救いがたく孤独であることに大いに関係している。夜、ただ何もしないで椅子に座る。仕事は苦痛、救済はない。最後にはもちろん死ぬ。
バロック的な陰影を刻印したライティング。エドガルドは布のなかに包まれて自分の居場所を確定させる。最初は母親の服の中、次はローマ教皇の服、最後は寝台のシーツ。エドガルドにとっての家が変容していく。布に包>>続きを読む
親密さの表現だと思われるが、クロースアップがあまりにも多い。乱用と言ってもいい。世代間の断絶といったテーマの翻案のされ方は興味深いが、もう少しロングショットがあったら、そういった断絶の心理的・時間的距>>続きを読む
個人的には不発な方のウォルシュ。列車からいとも簡単に飛び降りる。終盤のナチスとの対峙、ドアの開き方が幽霊的。
NYから掘るかBKから掘るかのモグラ対決。半裸の男たちの汗が肉体を輝かせる。最後は手で掘ってしまうのが凄い。
ただひたすらピーター・ジャクソンが偉大だったことを確認するためだけの115分。でもミニコングは可愛かった。
和解することの不可能性というのは『ハッピーアワー』以降たびたび主題化されてきたが、今作はその主題がもっとも徹底している。不穏から平穏までを揺れ動く対話のうねり。ただ、一番この映画で凄いのは人間のあれこ>>続きを読む
昔本気で追いかけた監督の新作に失望することほど悲しい経験はないと思い知った。依頼されて、といった製作事情を鑑みても、あまりに「いい話」のなかに収まりすぎではないか。『息の跡』にあった不気味なテクスチャ>>続きを読む
バナナの果肉を捨てて皮を食べるところからはじまって、犬の首に碇を巻いて海に沈めようとしたりする冒頭のイカれ具合が凄いが、これが最後まで続く。「ヒラメかサーモンか」みたいな無意味な会話で5分くらい続く。
最初はテロップによる場所や人物の説明が煩わしく、ワン・ビンまでもが分かりやすい映画を撮るようになってしまったのかと失望しかけた。しかし、労働者の固有名詞を字幕で連呼することから、名前のない人間を撮り続>>続きを読む
人間が人間を手当たり次第に殴り、葉巻は常に爆発する。猫に同一化する子供。この子供が劇中最強のミソジニストかつレイシスト。
ウォーレス・ビアリーが忘れられた人間になる瞬間は真に感動的なシーンであり、だか>>続きを読む
最後の兄弟の再開は、引きの画で撮るべきだったと思う。
己の不幸を嘆きながら自死を選択する。「あの世がどんなところでも、ここよりかはマシだ」
ブルジョワジーの頽廃というテーマや、思い切り開口することが非人間への入り口になることなど、一作目にもあった。この監督に限らず、細切れのイメージをフラッシュバックのように用いるのは、表現としてずいぶん昔>>続きを読む
生身でなく、画像としての付き合いがもっとも幸福であるように見えるのは面白い。韓国エリートの表象としては、好き嫌いはあれど、ホン・サンスの方が表現としてラディカルではある。素朴に運命論とか信じてしまう身>>続きを読む
フローレンス・ピューの幽霊的な現れ方、人間消失のイメージなどは面白い。最初の雨水による波紋と粒子のイメージは、最終的に爆弾の球体と爆発のイメージに繫がる。
それにしても、3時間の映画としてあまりにカッ>>続きを読む
ホテルの中を遊歩しながら過去を幻視する。イングリット・カーフェンが「カプリの漁師」を歌っているときに同性愛の話題がでるのは、ファスビンダーを意識しているのか。
リマスターは確かに美しいが、フィルムの粗>>続きを読む
いかに美しい構図を作るかを映画内で語る。庭園という美学的に重要なテーマだから成立している。少し露悪に寄りすぎており、グリーナウェイのなかではやや落ちるほうだと思う。
画を作ることには情熱的だか動かすことにはさほど執着していないように見えるのは変わらず。特に、肉体のぶつかり合いとしてのアクションにこの監督はまったく興味がないのだとわかった。絵画>映画。ハンス・ジマー>>続きを読む
プロスペローが魔法を使って妖精や怪物と戯れるあたりからこの監督の悪魔的演出が頂点に向かってゆく感じ。
どうしてグリーナウェイにはドリーショットが多いのかは結局よく分からず。横たわる人間→堕落(腐敗)と>>続きを読む
前作は家で今回は街。人物がフレームアウトしてからもショットが持続する。街の風景を見せている。博物館で街の歴史を知って、写真で人間の記憶を辿る。人間の不在は至るところで強調されている。空家のガスメーター>>続きを読む
全体が大きなパズルのような映画。認知症も盲目も障害も、すべて物語を動かすための機能を持つ。持ってしまっている。その意味で、小説的な映画。
もしこれが黒沢清だったら、ビニールハウスそのものの特異性に執着>>続きを読む
幻想に触れる触媒として、鏡や双眼鏡などが用いられるが、厳密に何かを必要としているわけではない。
撮影:レナート・ベルタ
父親の存在に対しては爆音の50cent、息子に対してはピアノの旋律、というように、人間と音に密接な関係性を持たせる聴覚的な演出。クライマックスは録音の音声。だから、劇伴は最小限に抑えられている。
自ら>>続きを読む
星を見ながら縄跳びをして、数を数える子供。最初の殺人から溺死が連続する。プールで夫を溺死させる妻、その殺し方が凄い。すべてをあきらめて服を脱ぎ、沈みゆくボートの上で死ぬのを待つ。
腐りゆくものを撮る、という主題。堕落した人間と腐った死骸とがモンタージュされる。赤いドレスを身にまとった女性が室内にフレームインすると、その空間が赤く照らされる。
撮影:サッシャ・ヴィエルニ
天体の運行のようにダンスした後、ひとりで街灯の下を歩く。巨大な存在(鯨)の出現とともに破滅する人間たち。破壊的な群衆は、最初は軍隊のように行進してゆくが、やがて亡霊のように、明かりの中に影が浮かび上が>>続きを読む
見せ場のほとんどすべてが逃走と追跡であり、肉体のぶつかり合いとしてのアクションはない。唯一の活劇的シーンはフラッシュバックの中だけ。戦わないアメコミ映画。
細部の説明をことごとく放棄しているのは好感が>>続きを読む
映像、音、言葉、それぞれに近づこうとすると、どれも唐突に中断される。イメージに触れることを作り手が拒絶しているように感じた。文化など消えてしまえばいい、と言う。
精神分析の言説を具現化する必要はあったのか。ボーの少年時代のエピソードはよかった。あそこだけP・T・アンダーソンがいた。作家の自由がある程度まで許容されるA24より、もう少し商業主義的な製作基盤のほう>>続きを読む
歯磨き粉、石鹸、シリアルなどのCM。ニクソン大統領、ベトナム戦争、核爆発のニュース映像。巨大イナゴ、巨大蜘蛛、巨大人間、巨大鳥。
“strong medicine for sensitive peop>>続きを読む
いわゆるスローシネマ。特に都市空間における移動のシークエンスに顕著だが、ヒーリング的な効果を生んでいる。癒しとしての映画というわけだが、スローであることが、加速主義的な現代に対する映画のオルタナティヴ>>続きを読む
失踪する映画監督、という主題は前作に続いて現れる。この映画監督は、各地に点在するモニュメントに異常な関心を示している。物質は残るが映画は残らない。空洞的な都市風景はアントニオーニ的。
16ミリで撮られているのは、画面に映るあらゆる光を際立たせるためなのか。街灯、懐中電灯、星。ただ、少し光のテーマを反復し過ぎている。わかり易すぎる。商業映画だからいいのか。「外で話せない?」と言われて>>続きを読む
あまりに説話的で、少し悪い意味で、エリセのなかでは例外的にわかりやすい。フィルムへの郷愁にムルナウやニコラス・レイを持ち出すところなど通俗的ですらある。もっとも優れたショットは冒頭の数カット。デジタル>>続きを読む
長野県遠山郷の霜月祭。農民一揆によって皆殺しにされた遠山家の怨霊を鎮める。仮面の踊り手には遠山家が重ねられているらしい。当たり前だが画面に血生臭さなどなく、笛の音がむしろ牧歌的に響く。夜を徹して、とい>>続きを読む
都市生活の断片と、ところどころに自然風景がモンタージュされる。雑踏、室内、電話、空ビン。楽しみにしていたあやとりの部分は、それがどの地域所以のものか説明はないが、人間が歩いたり、鳥が羽ばたいているよう>>続きを読む