刺客を吹き飛ばしながら爆走するエノケンのロングショットにキートンが重なる。冗談のような人の死に方が素晴らしい。人知れずに咲いて散る桜となれ、と言われる。
くだらないコメディを大真面目に、超リッチに撮るのは『ゴーン・ガール』と同様だが、本当にこの演出は正解なのか。ジャンルにはそれにふさわしい形式というのがあるのではないか。映画はもう少し不自由であるべきだ>>続きを読む
合戦をスペクタクルとして撮ることは巧妙に避けている。一方で、寺島進が出てくる前後の活劇的緊張は凄まじい。全体に、露骨なまでに説明的なのは気になる。昔の武なら絶対に説明はしなかったはずである。でも、昔の>>続きを読む
女性は内側、男性は外側、といった単純な図式ではなく、この映画ではどちらも闇に囚われた存在としてある。その意味であの男女は似ている。2人の腕から手にかけての現れ方に同質性が認められる。足から始まるが手に>>続きを読む
アクション・シーンは意外にも俳優の身体がよく動き、さらにその動きが理解できる程度にはカットが持続する。そういう意味で悪い映画ではない。フランチャイズとしてはもう死にかけているが、ファンとして、息絶える>>続きを読む
下敷きになっているのは『生きるべきか死ぬべきか』であろうが、ルビッチに比べてロウ・イエは歴史劇に比重を置いているようである。しかしそれならば、やはりこの映画にロングショットは必要だったのではないか。自>>続きを読む
ゴジラの出し方、スピルバーグ的構図など、冒頭15分は良い。
ゴジラではなく、ニンゲンばかりが映る。アンノ版のように、真剣に右翼的であるならまだ見応えもあるが、変に特攻隊批判などを行なってしまったがため>>続きを読む
途切れないフリージャズは、永山則夫という一人の若者に対して当てられたもので、それゆえに、風景映画として見るとややうるさい。北海道から始まるこれら風景に国家の権力性を見出すのは、やはり松田や中平のテクス>>続きを読む
フレーム内外における人物の大胆な動かし方や、意表を突く切り返しによって、不自然な物語も力ずくで自然に見せてしまう魔術的演出。しかし、ファンタジーを絵に書いたような舞台装置を持ってきてしまうことで演出は>>続きを読む
子供の笑顔で終わる映画。それだけで万死に値する。見たことを記憶から消去したい。
口をへの字にしたままのディカプリオ。途中から彼の周りに蝿がたかる。人間が腐ってゆくように見える。射殺のタイミングはどれも良いが、最初がもっとも優れていた。
前作で少なからず失望させられたが、なんとか持>>続きを読む
固定されたカメラで捉えられた風景の連続。ショットの持続時間が長い。「荒地」的な風景だと思った。
殺人者のインタビューと風景を接続する。そういうことが起きた場所だ、と提示される。
前作を見たとき、冨永さんは群像劇の人ではないと感じたが、少し考え直すべきなのかもしれないと思った。きらびやかな世界が舞台のはずなのに、ゴミ溜めから始める感覚が良い。心から好きにはなれないが、次回作も必>>続きを読む
ブロムカンプの映画を久しぶりに見た。編集のノリで無理やり盛り上げるような演出の雑さは変わらず。レースをゲーム的に演出することで、「ゲームか現実か」のような二項対立をうまく回避しているように見える。が、>>続きを読む
事実の羅列ならともかく、道徳の教科書のような台詞まで人物に喋らせている。無知な観客を啓蒙せんとする作り手の態度が透けて見える。言葉しかない。これなら自分で本を読んで勉強していたほうがよほど有意義である>>続きを読む
雨漏りから始まり、前半はほとんどが雨。それから溢れた水が押し寄せてくる。家に人生を奪われた建築家が家を破壊する。後半は嘘のように晴れる。
創造性というものの価値を疑わず、家族愛などを最終的に肯定してし>>続きを読む
空と地上、ふたつの視点から空襲を捉える。地上ではそこら中に死体が転がっている。暗闇のなかで投下される爆弾の映像。ある意味美しさすら感じさせてしまう映像なのが面白い。
破壊された都市に悲愴な音楽を添える>>続きを読む
基本的に全体が横移動で構成されている。そのため、縦移動が現れる瞬間がもっとも劇的な演出になる。
ロングショットから移動撮影へと移行する冒頭から良い。万引きする、タバコを吸う、歩く。ダッフルコートを買うことに執着している。その後、サンタクロースの格好をしながら女性にセクハラする。服装を変えることは>>続きを読む
まだ習作、といった印象。心底どうでもいい台詞、人間、人生。言葉はやはり多い。
孤独であればあるほど言葉が出てくるが、自分の言葉を受け止めてくれる人がいない。相手は喋らない。セックスに対する好奇心があるのと同時に嫌悪感もある。避妊の会話が続く。赤ちゃんの泣き声を聞くだけで苛つきが>>続きを読む
鏡に映った自分が分裂する。もう一人の自分が目の前に現れる。自分が自分でない、あるいは自分自身でありたくないという感覚。だから、彼女は常に物語の世界に逃避している。男たちは無惨に死ぬ。ある種の男性に対す>>続きを読む
再見なのにほとんど覚えておらず。スサーナが男性と井戸に入るところだけ強烈に覚えていた。秩序ある共同体に異物が闖入し、混乱がもたらされる。
映画としてうまいとは思えないが、たしかにラッセル・クロウ神父の暴力的な身振りは新鮮ではある。男性神父二人に相対する悪魔がどちらも女性であることが興味深い。
絵画の肖像に生命が宿り、現実の肉体は機能停止する。顔のクロースアップが多い。
アル中女が彷徨うベルリンは常に日が落ちていて暗い。船出のシーンでやっと明るくなるが、船がたどり着いた先にはゴミの山が広がっている。スーツケースの中身をぶちまける、グラスを投げ捨てる、あるいは自動車衝突>>続きを読む
デルフィーヌ・セイリグによる女マブゼもよいが、ドリアン・グレイ=ヴェルーシュカ・フォン・レーンドルフの中性的な風貌に魅了される。SF的なテーマもあり、ボウイを思い出す。孤独であることについて、ガラス越>>続きを読む
そこはかとなく漂うトラッシュ臭。フリークスを見ているだけで楽しいが、途中、彼らは隊列を組んだ黒ずくめの人間たちに連行される。鳴り響く射殺音。(おそらく理性によって)狂気は囲い込まれ、精神病院に幽閉され>>続きを読む
芸術には痛みが伴う、という普遍的な命題をそのまま映像化してしまう。テーマ的にデリーロに再接近しているため、言葉の比重が大きい。映画全体が、言葉と肉体とで分離している印象。食事にあれほどの労苦が必要であ>>続きを読む
死ぬべき人間が死ぬべくして死ぬ。ブルジョワジーに対する暴力の苛烈さも見ものだが、もっとも見るべきなのは、おじいちゃんの歩き方。夜中にお菓子を食べるため、おじいちゃんがこっそりとよちよち歩きをする。あま>>続きを読む
全体に、メッセージを受け取るための映画であって、見るための映画ではない。映像が言葉に従属している。カット数が多い。前作もそうだが、演出家としてのグレタ・ガーウィグは、どうしようもなく凡庸だと思う。バー>>続きを読む
娼婦が迷い猫を抱きかかえたと思ったら、首をへし折って殺した。死骸を家に持ち帰り、暴力夫の前に置く。もちろん猫に自分を重ねている。もう死んでるのにまだ生きてる。
部屋の明かりは灯台の光のように窓から漏れ>>続きを読む
身障者をボコボコにリンチする。動物を叩き殺す。誰からも愛されず、憎しみのなかで即物的に死ぬ。
まったく意味のない、生まれるべきではなかった私というのは確かに存在するのだと教えてくれる。
亡くなった父親の形見は牛乳パック。地下世界から続く頸動脈を辿っていった先は涙の沼地。私の中の病院から脱出して、自己から解放される。