便器のなかの糞と対面して告解する。救急車でレースゲームに興じる医師たち。科学的合理主義の行き着く先が神秘主義になる。
私の死、および私の死による近親者の悲しみは、この世界においては、道端に投げ捨てられ>>続きを読む
沼地のなかにそびえ立つ病院。水が溢れ出し、地盤沈下が起こる。エレベーターの天井にある裂け目から少女の声が聞こえる。どこまでも続く迷宮的な廊下。妊娠の恐怖。
語り手はダウン症の男女2人。彼らだけが病院内>>続きを読む
自分が運転したくないのに、いつの間にか運転席に座ってしまうギャグなどがホークス的。物語を置き去りにして、ただひたすら身体の動きを見せる。
映画全体で、紙、オフライン、対面をこれほど強調してデジタル批判>>続きを読む
気に入った映画のコマフィルムを手に入れる喜び、あるいはそれを失くす悲しみは、ある年代までの映画好きなら共有される経験だろう。
なぜ自分は自分の人生に選ばれなかったのか。家を選び取ることがどれほどの地獄>>続きを読む
脚本の欠落。製作の過程を映画内で(フィクションとして)見せること。たびたび車内から風景が映される。催眠術は後の『ヨーロッパ』を予告している。
現実の地獄と直面したとき、ファンタジーが発動するという構造はオーソドックスだが、想像の世界もまた地獄だった。自分の心(頭)のなかには大きな石がある。少年が自分で自分に打ち付けた石。憎しみの塊。とても暗>>続きを読む
初めてホン・サンスでいいと思った。書けなくなった小説家が双眼鏡で凝視するのが道であることが素晴らしい。書けないから歩く。
映画内映画におけるキム・ミニの演出は、現実における監督と俳優との関係を考えると>>続きを読む
列車、馬、自動車といった移動装置を用いたアクションが、稚拙な物語を感じさせない。しかし、脚本を切り刻んで活劇に徹することはできていない。老体を若返らせ、鞭を打つ必要が、IJである必要があるのか。ディズ>>続きを読む
映画全体が、観客に対する催眠として演出されている。常に観客と主人公とを同一化させようと試みるモノローグ。モノクロとカラーを行き来する人間。死が海を漂うイメージ。
ライト、新聞、人間などが、吊り下げられるイメージが頻出する。宙吊りになり、地に足がつかない。形式としてはノワールだが、黒ではない、セピア色に染色された世界が広がる。疎外された人間のモノローグ。
眠れない人のための映画。朝が怖い。部屋から出ない人間にとって、窓は特別な意味をもつ。恐怖は窓からやってくる。
物語は混沌としているが、紫や青を基調とした色彩が、映画に統一的な美を与えている。都市的な色。アニメーションとしての革新性を備えたアート映画というより、優れたサウンド・トラックを配した音楽映画として見て>>続きを読む
超速がテーマだが、アクションシーンはスローを多様しており、むしろ鈍足な印象を受ける。エズラ・ミラーが能力を失いながらも疾走してみせるときだけ、俳優の身体性が顕現する。
食事が常に貧しい。電灯、食器、エレベーター、さまざまな身の回りのものからノイズが聞こえてくる。音を聞く映画。
絶望というのは劇的なかたちで到来するのではなく、それは日常のうちに、灰が降り積もるように、>>続きを読む
数字にしか興味を示さない男。家具にシーツを被せるのは、主人公の人間的背景を遮蔽する機能がある。カードに興ずる人間の顔どもが死体のように冷たい。勝ち続けるUSAと、魚眼レンズで捉えた国家の暴力。
前半だ>>続きを読む
映画の中枢に置かれた炎上するビルを現代の羅生門だと見なせば、濁流のような雨の存在も説明はできる。トンネル、あるいは夜の海に顕現する深い暗闇もまた、映画の基調となる色彩を画面に与えるが、この暗闇は、最終>>続きを読む
なぜスタンダードのモノクロなのか。最初は、それはうんこの物量に由来する、つまり画面が匂い立つのを防ぐための苦肉の策であるかに思われたが、違った。途中から、作品がサイレント映画を標榜していたことがわかる>>続きを読む
絵画、写真、彫刻、スクリーン、あらゆる次元から彼は身体に囲まれているが、決して「生身」に到達することはない。
ドイツ的鬱屈はきれいに取り除かれている。汚さ、卑しさではなく、画面は常に美しさを追求してい>>続きを読む
ネルソンの死に様はほんとうに無様というよりない。背が低く、醜悪な顔に訪れる無惨で陰惨な死。
早口のナレーションに素早い記録映像を連射するウルトラ・プロパガンダ。映画全体が機関銃のよう。
キリストがスクリーンに受肉するまで。聖なる夜に人々の善意が連鎖する。荒野に輝く星を見つけるカウボーイたち。その星がみすぼらしい作り物だったという素晴らしさ。
喧嘩に夢中になるあまり赤ちゃんを忘れてくる女性。紛争による混乱のなかでの略奪、乳母車にレコードプレイヤーを乗っけて颯爽と去ってゆく貴婦人二人。
ケイト・ブランシェットによるキャンセル・カルチャー講義のあたりから、言語主体の映画だと感じられてくる。鏡、ガラスに反射した主人公を二重に映すことによって、彼女の人格の二重性、あるいは多層性が浮かび上が>>続きを読む
色調は一定して薄暗い。この色調が、映画全体を覆い尽くす陰鬱さと同調している。
フェンスが頻繁に映る。ロケットが地球から抜け出すように、子供たちは「囲い」からの脱出を試みる。車内に佇むアン・ハサウェイを>>続きを読む
主人公の人生に訪れる暴力と絶望は計り知れないものであるはずだが、なぜか全体に軽い、「オシャレな映画」然とした雰囲気が感じられた。ブレッソンのような非情さはない。それはモノクロだからではなく、言語過多だ>>続きを読む
強い風の音が途切れない。母親との会話はある。しかし、お互いの深い部分に到達することがない。
skype画面の向こう側に映る母の姿にはピントが合っていない。映画全体を支配する不明瞭さが、親子の深い断絶と>>続きを読む
EOは光に導かれて旅をしている。明滅する光。暗闇を凝視した先にトンネルが現れるのだが、トンネル内の地面が水に濡れていて、内部の照明を反射させている。誰もいない街を進むロバ。
見たいと思ってから幾年月、ようやく今日見ることができました。やはり凄まじい人気。休日、満席、快晴。
自分のなかの青春がまたひとつ死んでしまったような気がした。新しく始まるのかもしれないが、もう今までのようには見れないだろう。
オープニングの演出はさすがに酷い。レディオヘッドが古いとは言わないが、「ク>>続きを読む
ゲームにおけるプラットフォーム・アクションの映画への落とし込み方とか、マリカ、マンションなどのシリーズへの目配せ、またその的確さなどが言えるのだろうが、3DCGアニメとしての新しさはない。ゲーム、映画>>続きを読む
突然双子が現れて、気がついたら草引きの場面に移行してしまう強引さが凄い。なぜ刑務所のグラウンドにシマウマがいるのか皆目わからなかったのだが、自分は何か幻覚でも見ていたのだろうか。
前作で少なからず失望させられたソクーロフだが、新作ではいくぶんか、あの魔術的映像が戻ってきている。しかし、アーカイブの使い方になんとなくネクロマンサー的な態度を感じなくもない。ある種の、表象不可能性の>>続きを読む
バーの長いカウンターを進んでいく男たちを捉えた移動ショット。全体に、閉塞感が強い。手作りの小さな舟を手放してしまう場面などに、豊かな時間があると思う。
『大統領の陰謀』から連綿と続く「仕事に徹する」映画。形式としては、古典的ハリウッド映画の実践か。映画のもつ素朴な単純さを肯定しているように見える。アメコミ映画などが現代の複雑性を引き受けているのとは対>>続きを読む
室内と室外が反復される。部屋で食事をする女性を固定ショットに収め、群衆をドリーショットで捉える。風景は常に寂しく、孤独がべったりと染みついている。