都麦

オッペンハイマーの都麦のレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
1.5
「で?」

それ以上でも以下でもない、ただただ金を費やして、素晴らしきアカデミー賞を受賞✨アメリカ国民に讃えられる🇺🇸アメリカによるアメリカのための映画。まるで原爆の映画版?

元々この映画に良い印象なんてさらさら無いなか知らないで批判するのも尺なので仕方なしに観に行ったし、ノーランにも一切興味がない(なんなら鼻高々に“ノーラン”を気持ちよく語る“趣味は映画鑑賞”みたいな人々との会話をインスタ広告にあるクソゲーよりつまらないものと位置付けている)自分が観てもそりゃ捻くれた感想にしかならないわけだけど。

上映前は一応IMAXで観た方がよかったかな〜なんて思いながらもシネスコで鑑賞したが、それに全くの悔いもない。去年アマプラで観た『ソルトバーン』のほうが余程見応えがあった。

何より、そもそもこの映画が“原爆”の話なんかではないと気づいてからの虚無ったら!

大好きな教授に青酸カリ入れちゃう男がノリノリで始めた20億ドル科学ごっこ、そこから発生した苦悩(正直「オッピィさんそんなに頭がヨロシイならそうなること少しは想像できんかった?ほんまに?」としか思えなかった)、権力と権力と権力と、何も知らない馬鹿な国民と権力。そしてオッサンのプライドごっこ。

なーーーーーにを3時間強も使って見せられてたわけ???信じらんないよ、今日のこれが完全なる「ちょうど良い暇つぶし」だったから良いけど時間かけて平日の仕事終わりとかに観に行ってたら発狂してたよ。

それに、原爆の描き方がリアルであれど、オッピィさんの苦悩が本物であれど、「原爆」のその描き方が、権力やらオッサンのプライドやらに並列されて、終いにはそれらに収束されて描かれていた。その事実に強い怒りを覚えた。

オッペンハイマーも苦労した、おっさんたちが時間使って頑張った、そんなことを今語って良いほど原爆は昔話じゃない。勝手に昔話にするのはいつも権力者と傍観者だ。この映画も一緒じゃないか。何も知らない。体がドロドロになった人の名を、水を飲んで死んだ人の名を、1人でも言えるのか?「原爆で亡くなった可哀想な22万人」としてしか捉えてないんじゃないか?その時点でこの映画は原爆に真摯に向き合ってはいないし、賞賛を得るべきではない。原爆を扱う資格はない。映画は全てが一人称だとか、そういうことで許される問題ではない。

「広島や長崎じゃなく俺に感謝するべきだ」という発言も、それがこの物語の後半1/3のある種のメインテーマだったことも、まるで原爆の軽視にしか見えなかった。それがその時のアメリカのリアルなのだとしても、それでも作中での扱い方に問題があるように思えた。アカデミー賞受賞直後、アメリカの重役議員が「(戦争の解決のために)また原爆落とせば良いやん」と発言していた模様だが、その言葉に全てが現れている。結局アメリカはまだ何もわかっていない。解決のための暴力が、原爆が、どれほどの恐怖と地獄を生むのかをわかっていない。わかろうとしていない。
それなのに、まだ「昔話」なんかじゃない原爆をあたかも時効のように扱って、それがアカデミー賞を受賞して国内外で絶賛される?気持ち悪いね怖いよ。やっぱり疲れたよこれ。

人によってはこの意見を「そんなのアートに関係ない!」と言うかもしれない。これは崇高な芸術様だと。
自分も、描きたいものを描けば良いとは思う、それが芸術だから。必ず誰かを傷つける、きっとそれが芸術だから。

けれどそれは、自分の欲望に芸術の仮面を被せる責任を放り投げて、自分が生み出したものによる誰かの痛みに無頓着であって良い理由ではない。やりたいようにやって、芸術を免罪符にして、考えているフリだけをして、人の痛みを無視できるものが「芸術」の掟なのだとすれば、芸術なんていらないと思う。思えば自分が嫌だと思う作品は全てこれだ。そんなの人としてダメだ。これがつまらない人の考えなら、自分は一生つまらないままの人で良い。

体がドロドロになった22万人と心がズタズタになった何倍もの人々の傷みへの敬意が全く感じられないまま加害者側の苦悩(言い訳)を描いて、「映画」というビジネスを通してアメリカ国万歳というPRに収束する。
その時点で見るに堪えない映画だった。

「映像は綺麗」「役者は良い」
そういうのも全部、全部疲れた。なんなら映像はつまらなかったし、無駄に混在させていてわかりづらかった。

ノーランさん、そんなに凄くて影響力があるなら、学ばない国民はこの映画をそのまんま「歴史」と思って同じ未来を繰り返すと思わなかったのかい。
日本でもこれを「歴史が学べる」的捉え方をしている人が多くて嫌になるよ。歴史はその全てが、誰かが誰かのために書いた(あるいは書かされた)文学なんだぞ。コロンブスから学び直せ。
都麦

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