都麦

ほなまた明日の都麦のレビュー・感想・評価

ほなまた明日(2024年製作の映画)
4.4
これはナオの物語じゃない。

天才は太陽だから、眩しくて明るくて綺麗で一つで、みんな自然とそれを見つめる。それを中心に回る。けど、温めてもらえるのは遠くの人たちだけで、近すぎると火傷して、自分が消える。燃えてなくなる。作り続けることが馬鹿みたいになる。自分の名前を自分の作品に並べることも、自分の作品を自分の名前に並べることも恥ずかしくなって、自分に否定される。一番否定されたくないのに。けれど自分は否定する。否定できる。本物の光を知っているから、たかが反射でしかない自分に気づく。太陽はそれに気づかない。太陽だけは、自分に光が当たり前で、観る先全てが光って見える。太陽だけが、自分の歩いて行く道しか見えない。

一昨日『19歳』と『なっちゃんの家族』を観て、知ってる人の映画だと思った。そしてそれは今日も変わらなかった。道本監督は、知っているものしか描かなくて、知っているものを、これでもかというほど解像度高く描く。それは、知らない人には届かないかもしれない。けれど知っている人は、こうして雨の中傘を刺して新宿駅まで泣いて帰ることになる。

俺は知っている。一昨日は、ばあちゃんの優しさを知っていたし、19歳という“境目”のブルートピアも憂鬱も知っていた。自分の映画に描いてきたくらい知っていた。
そして今日は、殴りたくても殴れない、殴りたくない、好きで好きでたまらなくて憎くて憎くて仕方がない天才に潰されて、天才の熱で呼吸できなくなってる自分に気づかずに、天才の光でうまく笑えなくなっている自分を見て見ぬ振りするナオ以外の4人の気持ちを知っていた。

ナオが嫌いだ。俺から、俺の夢や喜びを奪った人。けれど、母親のあの態度を見るだけで、ナオを応援したくなってしまう。ベルリンに行きなよと言ってしまう。それは、映画を夢見た(見ている)(観ていた)俺がどれほどベルリン行きの飛行機が墜落すれば良いのにと思っても、それよりも強い俺の芯が、ナオを可哀想だと思っているから。ナオが愛おしいんだ。今なら劇中の2人に言えるだろう。「愛おしい」も「たぶん」も「可哀想」も全部ホント。俺の芯が映画じゃないこともホント。賭けられなかったんだなおれも。先生大好きだったけど小夜に対しての「お前のことも羨ましい」は残酷すぎて吐きそうになったよ。俺そんなこと言われたら帰宅後すぐ死ぬよ。

山田の涙は、ナオへの別れの涙であり、けどそれにベールを被せた、作家としての自分への涙だったのかもと俺は感じた。

とにかく、松田崚汰という俳優を、選ばせてもらえなかったことを、俺はいつまでも悔やむ。この映画さえ観なければ気づかずに済んだのに、観てしまったから、おれはいつまでも松田崚汰という俳優と、あの日のメールを、タラレバで想うことになる。

P.S.俺は、小夜は山田が好きだと思ってたけど、多田がナオを好きだなんて思ってもみなくて、アフタートークで口が開いた。多田お前、なんていうか、守備範囲広いな。まあそれも多田なのか。ちなみにおれは小夜が好き。クッッッッッッッッッッッッソタイプ。

つかれたな。俺もう映画やめよう
都麦

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