三國

赤い闇 スターリンの冷たい大地での三國のレビュー・感想・評価

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@恵比寿

作者の伝えたかったことは何かーーという文句は嫌いなのだけれど、あえて、こういう映画だから問うる。それは、主人公が「子供」であるにもかかわらず、大人であるような事柄だ、いうまでもなく豚の顔はしていない。
ジャーナリストによる狂熱的な真実=事実信奉に対する真っ向からの否(ノン)ではないか? 幾たびも取り交わされるが故に真実という言葉が頼りない。おそらく事実とはまったく確からしくない、ある一視覚に過ぎず、それを理とする一切の情熱は凶妄に他ならない。そして、あらゆる時代(歴史、人間の携わる)の可能性は、当世に生ける人間の様態によってのみ示される、賢人と狂人とを、あるいは成功者と失敗者とを幅として。その間に紛れていた一個の可能性が開示された、というだけのことなのだろう。
そうなのだ、僕の素直な感想は、これこそが!というような若気の興奮ではなく、もっとドライな、どうしようもない救いのなさを前にした失望(?)ーーこれくらいしかないんだろう、というのに近い。真実だけが大事だという教説ムービーなら、その戒律に照らして紹介状の偽装や私が見たところのものは飢饉ではありませんでしたとの発言は断罪されねばならない。だから、違うのだ、もっと蓋然的なのだ。もし主人公の見たものが事実だといわれるとしても、それが示すのは当時において蓋然性の度合いが低下していたことを示すに止まる(冒頭、議会のカットに、今世の私たちが議会に認める給料泥棒の安逸を認め得る)。故に問題はスターリンやヒトラーという固有名とともに葬られたのではなく、今なお我々とともにある。解決のつかなさを残して、しかし、搾取に開き直るニヒリズムを向こうにまわして、一片の可能性に過ぎない僕たちが生活のささやかさを守っていくには? 戦争は人間の顔をしていない。でも、それが事実であるとしても、あけっぴろげな弱肉強食に耐え得るのが人間とは思われないというより、生まれてきてよかったと感じられる味わいが社会も世界も介入し得ない極々些細なところにあると思うところからーー

メモ
慈善、ではなく、我事。
真実の蓋然性=度合いの低下と、それ(文化)を守り、維持し、育むこと(高めるというのは反動?)。
結局、僕の要望はわがままかも知れない、真実を貫いて30手前で死ぬか、嘘ばかり並べて生き永らえるかーーかかる極論が子どもじみている。一番の馬鹿が英雄たり得る? が、馬鹿が前提で英雄たり得るので、英雄たるために馬鹿になるのは順逆不問だ。一人ひとり、各々の気になって仕方がないところの掘削しか、宿命も、信じるという態度もない。そして、その様態の数だけが、人間の可能性だ。当時にあって一ジャーナリストの姿が貴重なのは、ヒトラーやスターリンとたんに対立するからというだけでなく、それら凄惨な政治体制とまさに併存していた点にある。その幅=度合いの拡がりに私などは驚きを隠さない。
衒学など糞食らえ、誰でもわかるように事実を記す。とはいえ、後者もまた幾分衒学的たらざるを得ないこと。

オーウェルが、主人公のいうようにソ連を買い被っていたのだとしたら、ジョーンズは政治を買い被っていたことになる、真実を訴えれば良心が動くーーもちろん、それへの信頼なしには生きていく能わざるけれどもーーというように。だから、大事なのは(サハリンを見たチェーホフもいっていたことだ)何を見たかではなくどう見たか、にかかっている。換言すれば、事実の真偽ではなく、その後の在り方にかかっていて、そこに正しいも間違っているもない。
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