まぬままおま

ヤンヤン 夏の想い出のまぬままおまのネタバレレビュー・内容・結末

ヤンヤン 夏の想い出(2000年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

エドワード・ヤンの映画をみていると、自分でも映画が撮れてしまうのではないかと思ってしまう。本作はヤンヤンの親類の結婚式から祖母の葬式までに至る夏の思い出を、群像劇として描いているだけだから。

しかしいざ脚本を書き始めたら、無理なことが分かるだろう。これの何が面白いのかと気づいてしまうし、どうしたら面白くなるのかも分からない。けれど本作は間違いなく面白い。なぜ?魔法のようにしか思えない。けれど『牯嶺街少年殺人事件』でも思ったが、群像劇として映像イメージが断片化されていようとも、モチーフや音声イメージによって接合されたり、断絶の偏差でリズムが生み出されている。だから映画として持続するし、とても心地よい。

物語それ自体に立ち入れば、ヤンヤンは人びとの後頭部をフィルムで撮っている。それは「自分じゃみえない」ものだから興味深いし、「みえていないものをみようとする」ことは重要だ。ヤンヤンは上述のようなことを祖母の棺の前で手紙を読んで決意表明するのだが、ヤン監督自身が映画を撮る信念でもあるはずだ。

本作は人びとの後頭部や背後を撮るショットが多分にある。本当に多い。これでもかと思うほどに多い。けれど本作をみて思う。私たちは他者と関係するとき、対面することが少ないことに。そして〈私〉が背中を向けることや他者を背後に追いやることの多さに。〈私〉が背中を向けるのは本心を隠すためだし、他者の背後がいつも見えている状態なのに見ていないのは、他者の本心をみようとしていないからだ。このような私たちが他者と関係する日常で「みえていないもの」を、本作は現前化させているのだ。

ヤンヤンが後頭部を撮るように、私たちが「みえていないもの」をみるためには背後に回ることが必要だ。だが背後に回るだけでは足りない。距離と光も重要だ。光は『牯嶺街少年殺人事件』で最も象徴化されているような気がするため、本作では距離に焦点を当てる。

後頭部を撮るには距離が必要だ。そうしなければ焦点が合わない。ヤンヤンが子どもとして父におぶられていたら、父の後頭部はみえないだろう。そして後頭部がカメラでみる〈私〉と遠すぎても映らない。つまり近すぎても遠すぎてもいけない。その〈私〉と他者が適切な距離をとることが重要だし、その距離の取り方が「大人である」し、「みえていないもの」≒本心をみる手立てでもある。だから本作は、ヤンヤンが結婚式から葬式といった家族の儀式が展開される「夏の思い出」で適切な距離を獲得して大人になろうとする成長譚であることも頷ける。

では本作で適切な距離はどこにあるのだろうか。
昏睡状態の祖母と家族が対面する距離は適切な気がする。彼らは夜な夜な祖母の元を訪れて、自分のことを話す。それは本心で語られているようだ。

しかし距離が適切に取られるのは祖母が動けないからだ。動ける他者との対面ではことごとく距離が失敗する。姉の恋は破局に終わるし、父の不倫もまた別れに転じる。さらに姉の恋仲は殺人を犯してしまう。動ける他者は距離が動くから、距離零の抱き締めることや肌の触れあいにも向かうし、殺害にも至ってしまう。私たちは対面すると適切な距離を見誤り、人間関係に事故を引き起こしてしまうのだ。

ヤンヤンも大人になったようだ。上述のような決意表明ができるほどに。しかし祖母は死んでいる。動かない他者としか適切な距離は取られていない。それならヤンヤンが成長したとして万事解決したかに思えるラストを快く受け入れることはできない気がする。

私たちは「死者」としか対面できない?私たちは他者に本心を隠そうとするし、他者の本心をみようともしない。そしてみようと対面すれば事故を起こす。悲しみしかない。

だがそれでもみようとすること、適切な距離を取ろうとすること、そんな運動は生きている私たちにしかできない。私はそんな光が「みえた」し、それが希望の名に値すると信じたい。

追記1
本作には父が東京に出張するシーンがあるが、明らかに熱海のホテルに泊まっている。このことから小津の『東京物語』を彷彿とさせる。だから小津の家族の通過儀礼における人間の変化を本作でも行っていると考えることはできる。それを本稿で「ヤンヤンが結婚式から葬式といった家族の儀式が展開される「夏の思い出」で適切な距離を獲得して大人になろうとする成長譚である」と記述し表した。さらに儀式があるから必然的に人びとは「着換える」。姉がデートシーンで真っ白な衣装に着換えるように、本作の衣装は印象的だし、人物は着換えによって変化が生じる。

また本作は対面と後頭部といった人物の前後運動が重要であるが、細部をみると垂直運動もとても興味深い。
例えばヤンヤンが学校で教師に水風船を落とすアクションがある。それからヤンヤンは逃げて、雲などの天気を映像としてみている授業に忍び込む。そして少し経つとドアは開いて、ヤンヤンはドアに引っかかった女子のパンツを目撃する。さらに雨が降ってくる。
このように何気ない描写の中で垂直運動を成すイメージが反復と接合され、ひとつの物語と化す。このようにイメージの並べ方がとても巧みだから、映画として持続するのだと感嘆する。ただパンチラ描写はもう許されない気がする。しかしヤンヤンが「性」に目覚める契機にもなっているから如何ともし難い。

追記2
父の不倫と並行して姉の恋が動き出す。姉の恋は父の思い出とリフレインされて展開されるのだが、もちろん父は姉の出来事をみていない/みれない。けれどそれでいいとも思う。全てみることはできないし、他者はみていないところで動いている。私の範疇外における他者の変えられなさと変わっていく他者を受け入れることが重要な気がする。それも適切な距離だ。