義清

書を捨てよ町へ出ようの義清のレビュー・感想・評価

書を捨てよ町へ出よう(1971年製作の映画)
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見なきゃ良かった。『アメリカングラフィティ』と『となりの山田君』と、どれにしようか迷った挙句にこれを観てしまったが、非常に気分が悪くなった。まるで『ソラリス』や『TheClockWorkOrange』のように、喉を掻き毟りたくなるような、尿意を堪えているかのような不快感!なにしろ、美しくない。例えばコッポラの映画は美しかった。あれは何といったか、、、アメリカ軍の殉葬の楽団の物語、、邦題『友よ風に吹かれて』。あれはすごく切ないけど美しかった。まるで春の小川のよう。『ドラキュラ』もまた、これは魅惑的という意味で美しかった。『AppocaripseNow』も、枠の構成が甘美だった。
なのに、これはなに?気持ち悪い。主人公の叫び声を聞くと、観てるこっちまでもが発狂しそうになる。目の前のDVDプレイヤーと画面を机ごとひっくり返し、文字では再現不可能な怒声をあげて、図書館を飛び出し、通りで破壊行為に身を染めて逮捕される自分が容易に想像できた。自分は寺山の生きた時代を知らない。彼が生み出したこの映像が、当時の空気を映しているものだとすれば、これをリアルタイムにスクリーンで観た人々、とくに若者の中には、1人くらいその場で発狂する者でもいなかったのだろうか。劇場の暗闇を、無法空間と錯覚する者が居なかったのだろうか。そして、それを咎める者などがいただろうか。観なきゃ良かった。主人公の佐々木英明は、冒頭で観客を挑発する。映画館の暗闇に上品すまして座ってないで行動を起こせ、隣の太ももに手を伸ばしてもお前の顔なぞばれっこないと。この挑発のせいで、物語そのものが無法的に、無秩序に進行していく印象を受ける。観る者の心に倫理観として存在する常識が、まるでドライアイスのように白煙と化す。この呪縛を解放するのが結びの場面だ。物語の結びには、佐々木英明が再び観客に語りかける。今度は冒頭のドスの効いた口調とはうって変わって、これで映画は終わる、僕は映画なんて嫌いだ、28日間の撮影の中の28日間の親子関係や28日間の人力飛行機の夢などもうたくさん、さようなら、と。この妙に現実世界めいた、本来虚構性の上に成り立つ映画というものの虚構的概念に言及してしまう発言により、観る者は無法的な呪縛を解かれる。もし、これがなかったなら、屋台車の前で騒ぎを起こして警官に連行される英明の叫び声を最後に物語が終わっていたなら、きっとスクリーンの前にいた自制心の弱い者の一人や二人は発狂していたことだろう。自分だって、その時の精神状態によっては、それを否定しきれない。“行動を起こ”してしまったかも。
それにしても、寺山さんはあまりに母親を目の敵にしすぎる。ちょっと理解できない。自分だったら、母をあんな風には描けない。小学校の嫌いだった先生や、苦手だった親戚のおばさんとかならまだしも。うちの母ちゃんはいつも優しかった。昨日は久々に豊四季台分館に足を運んだ。何年ぶりか。あの図書館で自分は、子供の割にはかなり雑学を身につけた。初めて読んだ伝記であるポプラ社の『ナポレオン』も相変わらずそこにあった。手にとってページを繰ってみたら、その活字の大きいこと。全ての漢字にルビがふられ、史実に忠実とはとても言い難い、創作的な文体で描かれていた。『ナポレオン』よりも少し歳を重ねてから手にとった『ソロモンの秘宝』には、地味な落書きをした。挿絵の踊り子の輪郭をボールペンでなぞり、ちょっとだけ陰影をつけた。それ以来その悪戯は何人の子供たちに、またその保護者たちの目に止まったかわからないが、まるでボールペンの線は気づかれていないかのようにそこにあった。不謹慎だが、我ながらなかなかの筆遣いだった。もっとも当時はこの本が書架から消えたのを見たことはなく、さらに、この十数年ぶりの対面という割には、表紙の傷みなどもほとんどなかったのだが。『海賊ポケット』もあった。すごく気に入って全巻読んだシリーズだ。初めて読んだのは、たしか、海賊船が空を飛ぶというテーマの巻で、母ちゃんが借りてきてくれたんだった。ギリシャ神話のシリーズも見てくればよかった。今思い出した。
あの頃は小さかった。たくさん可愛がってもらったし、たくさん心配と手間をかけた。そして、今に至る。それを顧みると、母ちゃんをより愛すべき存在と感じる。だから、自分だったら、寺山さんのように母親像を描くことは、おそらく絶対にできない。あんなふうに母親像を描けるなんて、どんな親子関係だったのか、『田園に死す』を観てはいてもなかなか想像できない。
寺山さんは稀有な感覚と表現力の持ち主だから、尊敬する。学科の先輩だから、兄貴のような親しみも覚える。つい先日の表参道ジャイルの『幻想図書館』に散りばめられた彼の言葉の一つ一つはとても美しく、示唆に富んでいて、まるで麻薬のような陶酔を覚えた。それなのに、なんで彼の映像はこんなにも不快感に満ちているのか。あの魔法のような言葉たちが映像化されるとこれほど強烈な腐乱臭を発するとは、どうも納得がいかない。
70年代って、たしか古き良き時代とか云われて、団塊世代が懐かしむ時代だったと思う。たしか1億総中流とかいわれ、皆が未来を明るくまっすぐな道だと思い描いていた、キラキラしていた時代。それなのになんでこの映画はこれほどまでに鬱屈しているのか。まるで現代の一部の人間が発する呟きの代弁のようじゃないか。
義清

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