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正義の行方のyadokariのレビュー・感想・評価

正義の行方(2024年製作の映画)
4.1
調査報道の映画。調査報道の重要性は、そのときの感情でニュースを観て白黒判断してしまうが、時間が経つに連れて判断が冷静になっていく。この事件も幼女誘拐殺人事件として痛ましい事件ならばこそ、素早く犯人逮捕と刑罰を与えて欲しいという大衆の欲望を警察が犯罪者逮捕の実績と新しい調査方法(血液鑑定)の導入を急いだあまりに見落とした「正義の行方」だった。それは一方的な警察権力が見る「正義」であり、犯罪者予備軍は排除したいという願望が出たのかもしれない。一つの事実、血液鑑定がまったくの根拠がなく、証拠も目撃証言だけであり、そこに警察の誘導という事実があったことを調査報道で明らかにするドキュメンタリーであり、地味な映画ではあるが見過ごせない問題を含んでいるのであった。

それは国家権力の横暴であり、間違っているのに間違いを認めずに過ぎたことは慣例通りにと推し進めていってしまう。これは法というものがまったく機能してなく、時に権力に左右されていくという問題を孕んでいるのだが司法の最近の問題を炙り出している事件だと思う。

警察官が当たり前のように勘だといい、新聞社の編集長も勘だと言う。その齟齬の中で、ある捜査官はそれ以後同じ事件が起きてないことが何よりの証明になると言っていたのが恐ろしいと思った。それは結果論であって、じゃあ同じような犯罪が起きた場合は、死刑された者はどう浮かばれるのかということに答えられないのじゃないのか。つまり最初から犯罪予備軍の排除ありきで、それも死刑という恐ろしい結果を生み出すのである。それは前科者を疑わしき目で見る風潮なのだろうか?と思うのである

それに対して新聞社の編集長はどうしても疑わしきは罰せずという法の理念があったという。その理念が過去に遡っての現場検証があり、警察幹部の証言を引き出していた。それは血液鑑定を取り込むために科学の検証に対して圧力(警察は圧力ではないというが、圧力と取られたたなら仕方がないという)をかけたこと。血液鑑定の冤罪事件が多くある中で、これは警察が犯人逮捕の勘だけを頼りに捜査し、それが裁判で自動的に刑罰というものに繋がる恐ろしさを含んでいるのである。

つまり正義は権力側にしかなく、判決はその言い分によって決められてしまう恐ろしさを孕んでいる。残念ながら日本の法というものは、無実の人を逮捕して死刑ということがありうる社会なのだ。
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