ことばが拓く未来
2022年 アメリカ作品
ボリビアのメノナイト
キリスト教福音派のアナバプティストが起源
一般社会から距離を取り
農業や酪農をしながら自給自足の生活を営む
電気も、自動車も、電話もない
素朴な昔ながらの生活スタイル
家父長制と連動する厳しい規律でも知られる
2009年当時
2000人ほどが暮らしていたメノナイト
2005年から2009年にかけて起こった事件
数百人の女性が性的暴行の被害に遭ったという
女性たちの被害は
“悪魔の仕業だ”
“女の妄想だ”
と周囲の言葉で抑え込まれていたという
信じ難い事実を基にした作品
極限の状況に置かれ
発言を抑えられてきた女性たちの言葉は
一言ひと言に重みが感じられる
それは、彼女たちのコミュニティにおける問題にとどまらず、現代の世界に生きる私たちにも問いかけられる根源的な問いでもある
「逃げるか闘うか」
「村の成り立ちからは男も女も犠牲者」
「長老は支配者」
「なぜ愛から暴力が生まれるのか」
「究極の目標は自由と安全」
「善とは何か」
「信仰は法律より強い」
「競争や論争より優しさや思いやり」
「子供の安全を望む」
「自分の信念を貫く」
「考える」
考えるということは
言葉を使って共に話し合うこと
彼女たち一人ひとりが語り紡いだ言葉たち
言葉の持つ力についてあらためて考えさせられた
『臨床とことば』(鷲田清一×河合隼雄)
▶〈語る/聴く〉のなかの共犯関係(鷲田)
聴くといういとなみのなかでことばが逸らされるのは、ことばを迎えにゆくなかで起こるだけではない。詰まりながらもしっかり語りだされたことばもまた、聴くなかで逸らされることがある。
語りとは語りなおしのことである。語りのなかでひとは自分を編みなおす。「自己のアイデンティティとは、じぶんが何者であるかを自己に語って聞かせるストーリーである」と述べたのはR・D・レインだが、生きるということには、このような「じぶんに語って聞かせるストーリー」が自他のあいだで、そのストーリーをたがいに無効化しあう齟齬や不協和を惹き起こしながら何度も何度も破綻する果てしのない過程であると言える面がある。
あるいは、そのなかでそのストーリーをたえず別のしかたで語りなおすべく試みる過程であるともいえる。ストーリー(物語)を壊して語りなおすこと、それを壊して壊して、どこか別のところに引っ越すこと。物語ることによって、これまでとは違ったかたちでじぶんにかかわれるようになると言ったのは、そういうことである。
ことばは、かたちを求めてうごめくものにかたちを与える。ことばがかたちとなって、かたちなきものが固められる。「語る」とは自己の記述のしなおしであるかぎり、そこにどうしても「騙(かた)る」という契機が忍び込まざるをえない。
そして、じぶんをある物語のなかに「それがわたしだ」というふうにうまく挿し込むことができるのは、それがひとつの物語であることを忘れて、じぶんそのものであると感じることによるのだから、「語り」はそれがしっくりくるものであるだけ「騙り」であるとは見えなくなる。「語り」と「騙り」のすきまが埋まってしまうのである。
だから、ある物語を身から引きはがすことは、ほとんどじぶんを破綻させることと同じになる。そして物語が強固であればあるだけ、語りなおしは困難になる。だから、語りなおしには、まず硬直した物語をぐらつかせるということが必要になる。が、物語をぐらつかせることはそのまま自己をぐらつかせるということなので、そこに一種の介添えをいうものが必要になる。
臨床での〈聴く〉といういとなみには、そういうふうに物語を解くという面がある。それはもちろん、ことばで固められたものをほぐすということでもある。そのとき「ぐらつき」は「ほぐし」へと転じる。
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彼女たちの話し合いは
「ぐらつき」から「ほぐし」へ転じた
一人ひとりが
「自分自身のストーリー」を
壊しては語りなおし
また壊しては語りなおした
そのことばは
かたちなきものにかたちを与え
次の世代にしっかりと受け継がれるだろう