まぬままおま

14歳の栞のまぬままおまのネタバレレビュー・内容・結末

14歳の栞(2021年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

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「誰かが孤独になりたいとしたら、死んだ(デッド)メディアに頼るのがいちばんなの。メディアと、わたしと、ふたりっきり」
とミァハは答えた。あの冷たくなめらかで、ヒトを眠りに誘うような声でさらに続ける。
「映画とか、絵画とか。でも、持久力という点では本がいちばん頑丈よ」
「持久力、って何の」
「孤独の持久力」 (p.17,伊藤計劃『ハーモニー』)
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14歳の私が読んでいた本の一片だ。

本作に私が存在しなくて本当によかったと思う。もし在るように語られてしまったら、心がもたなかったと思う。

以下の文章は本作に感動したあなたに向けて書いたものではない。あなたは優しくて真っ当な人である。何の翳りもなく14歳の頃を懐かしみ話さなかった誰かに思いを馳せて、人生を歩めばいいと思う。だから「ネタバレを表示」を開示したあなたの意志を恨んで、そっとこのテキストを閉じてほしい。

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さて、私はそんな優しさにうんざりしているし、「あまのじゃく」だから本作を批判する。
もちろん本作に登場した彼らではなく、彼らにカメラを向けた語り手に対してだ。

教室に行けなくなってしまった彼が登場する。楽しそうなクラスのはずなのに「不登校」の彼。カメラがクラスメイトにインタビューをする。すると彼が教室に来れなくなった原因が、クラスメイトが学校行事で彼を叱責したことであると発覚する。クラスメイトは叱責したことを悔やんでいる。詫びの手紙も送る。そして同じクラスにいる間に教室に来てほしいと、最後のクラスでの集合写真に来てほしいと告げる。だが彼が来ることはなかった。

私たち観賞者は彼に思いを馳せる。そういう原因があったのか、行けなくなってしまうのもしかたない。最後に現れなかったのはかわいそうだけど、今もきっと懸命に生きているはずだ。そして私たち観賞者のクラスにもいた彼と似た境遇のクラスメイトに思いを馳せる。きっとこんなことがあったんだと。

しかし私は思う。そんな風に分かった気になるなよと。

だいたい彼が行けなくなってしまった原因が、本作で発覚したものだけではないでしょう。もちろん一つの原因ではあるとしても、もっと事実は複合的だ。詰める先生が原因かもしれない、家庭の事情が原因かもしれない、部活動や勉強が原因かもしれない。そしてクラスに本作のドキュメンタリースタッフがやってきて、始終カメラを回していることが原因かもしれない。もっと事実は複合的であるかもしれないはずなのに、彼にさらなる聞き出しを行うこともなければ、事実の検証もせずに、ひとつのエピソードとして消費して、観客のエモーションをかき立てて物語る。不誠実な語りとしか言いようがない。

本作は「ありのまま」の彼らを撮ったという。もちろん彼らは実在しているからそう言えるだろう。しかしそれは本作が「ありのまま」であることを担保するものではない。映画としてある以上、そこには語り手の恣意性が多分に含まれる。そしてそれを一番感じるのは、編集についてだ。

編集で過度にセンセーショナルに語っていないだろうか。
公式SNSや藁半紙で注意書きがされる。「SNSを通じた誹謗中傷、プライバシーの詮索・侵害、ネガティブな発信・書き込みは、何卒おやめいただきますようお願い申し上げます」
確かに実際の学校を訪問したり、個人を特定し誹謗中傷、プライバシーの詮索・侵害、犯罪を行おうとするろくでもない観客がいることは間違いない。しかし欺瞞に満ちてもいると思う。誹謗中傷、プライバシーの詮索・侵害につながるような彼らの語りや行動を引き出し、カメラでドキュメントしておいて、その帰結の責任を観客の倫理の欠如に求めることは。
なぜ彼らがそのような語りや行動をするのか、深掘りをすることもなければ、カメラによる和解もなく、編集によって短絡的に物語化される。カットもしない。むしろ積極的に配置する。

原一男はこのような注意書きをするのだろうか。もちろん原監督が全て正しいとは思っていないが、もっとカメラを他者に向ける暴力性には自覚的だし、だからこそしつこく他者に迫っている。怒りも拒否も撮る。そしてそれを映画として提示する責任を監督が負っている。そんな責任を放棄して、注意書きで事済ませようとすることを、現代的だといっていいのだろうか。

健全な無関心は存在しないのだろうか。『ハーモニー』が描いたディストピア世界へまっしぐらだ。他者を物語化させて分かった気になって、関心を向けて手を差しのばすことを優しさと履き違える世界に。他者は物語の範疇に留まらない。〈私〉の手元をすり抜けるもっと理解不能な他者だ。その理解できなさを理解できないまま放っておくことはできないのだろうか。彼らはクラス外で勝手に生きている。私はそれでいいと思っている。

それでも物語ろうとすること。その危うさの中に、映画としての力があると信じている。もし本作にないのなら、私がやらなければならない。それが私の責任だ。

引用文献
伊藤計劃(2010)『ハーモニー』早川書房

別記1
序盤の馬のシーンは、生物の本性として集団性を獲得することが大人になることと騙り、普遍性を装うものではある。それだけで全く不要なのだが、骨のショットがあることで本作のフィクション性を暴露している気がする。それはそれでいいのだろうか。

別記2
本作のエンディングテーマである「栞」を歌うクリープハイプの尾崎世界観は、原付の免許を取れなかったんですよ。大人になって、別作品のMVでバンドメンバー全員が原付で走るシーンを撮りたいという必要性があったにも関わらず。そんな尾崎世界観は本作の世界には存在しないし、クラスにも存在しなかったと思う。それは救いのような気がするが、それでもエンディングテーマを歌っているのは何とも皮肉だ。