浄土

ドライブ・マイ・カーの浄土のレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.3
真っ先にこれは言っておきたい。3時間弱のランニングタイムで様々なレイヤーを重ねた構造の作品でありながら、鑑賞後の疲労感がほぼないの凄くない?鑑賞直後の心境としてはちょっとしたデトックスのようですらあったし、映画そのものが全身にスッと浸透したようでそこに感動してしまった。

見終わってしばらくして、なぜこの映画をすんなり受け止められたのかを考える。一つ間違いないのは、自分の好む作家性の傾向の一つとして「日々の人間生活を見つめているか?」というのが大きな要因であるということ。チェーホフの戯曲にはまったく明るくないけど、帝政ロシアにはそういう作家が多かったかもなあとぼんやり考えたりしていた。無論ゴリゴリの邦画で現代劇であるため、集合的無意識に沿って没入できるという点においてアドバンテージでしかないことは重々承知している。それを差し引いても、この作品が内包している我々の現実生活とイーブンな感覚はいったいなんなのか。

劇中劇と平行してストーリーが進んでいくのは単なるギミックではなく、演技(チェーホフの舞台)の中に本音があり、リアル(映画内の出来事)の中に建前があるというメビウスの帯のような構造になっている。それゆえに「100年以上前の舞台劇をわざわざ映画の中でやっている」という居心地の悪さが取り除かれて、更にはチェーホフの戯曲を換骨奪胎して自分の映画に違和感なく取り入れてしまっているのだから見事と言うほかない。あの劇中劇を見て「ロシアの戯曲?なんだか小難しそうだな」と思ってた人も考えを改めたんじゃないだろうか。「すべての物語は今生きている我々のために作られた」という忘れがちな事実を思い出させてくれただけでも、この映画に価値はあると思う。

そして本作の快適さにかまけて図らずも認めることになったのは、自分も少なからずマザコンなんだろうなということ。主人公の家福は一見すると洗練された暮らしぶりでリベラルだし、妻の不義に激昂することもない。その一方で己の伴侶に対して徹底的な母性を求めていることがわかる。良き夫・良き男であろうとする家福の鎧は車であり、車内においては(矛盾した言い方になるが)彼は彼自身の世界の中で唯一人のホモソーシャルだった。妻にもハンドルは預けることはない、預けるのは鎧を脱いだ自分の肢体だけ。そう考えるとこの家福というキャラクターは非常にアメリカ的だし、村上春樹っぽいなとも思えてくる。

繰り返し映し出される地下駐車場の入庫シーンは完全に母胎回帰願望そのものだし、あの耳障りなブザー音をしつこく鳴り響かせて印象的に描写するのは、見る側に対する親切が過ぎるとすら言える。生来の優しさではなく、傷つきたくないという防衛本能の結果としての冷静さは己に対する欺瞞ではなかったか?自分の葛藤や焦燥を曝け出せない様は物凄く理解できてしまうし、それゆえにあの独白には忸怩たる思いがあった。

シームレスに進んで行く演出も見事で、これも間違いなくストレスなく見れた要素の一つではあるのだけど、逆にシームレスでありすぎるが故に時折顔を出すベタな演出にちょっと虚を突かれたところも正直あった。あの並走してたシークエンスとかね…そもそも岡田将生ってアクサダイレクトのCM出てたけど、あれ、いいのか。

ネタバレになるから詳細書かないけど、終わり方だけはあんまり好きじゃない。でもトータルで言えば好きが勝つ。そんな映画だった。
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