otomisan

オフィサー・アンド・スパイのotomisanのレビュー・感想・評価

4.0
 監督の性癖を思い返すと、どの面下げてこんな映画作りやがったか、と思う向きも多いのではないか?悪党なら悪党らしく精々悪ぶってりゃいいだろう、というところかも知れないが、そんな分かりやすい事で何が面白かろう。

 この映画、題材はドレフュス事件だが、その切り口は当の大尉や事件の冤罪性を告発する在野人たちではなく、当初訴追側に立ち、裁判のあと程なく、事を立件させた張本人の後釜で防諜部長に就き事件の実相と大尉の冤罪に気付き真犯人に最初にたどり着いたんだそうな、中佐ピカール氏である。
 そんな人がいたのだと目を惹いた。歴史の授業なんかでは原題にある様にゾラが「ロロール」紙上でかの事件の疑問点を挙げて、もって軍と国を弾劾する(J'accuse)と告発したのが世界史的事態化の始まりとされたが、ゾラ独自の働きだけでは秘密だらけ隠し事だらけの軍内部の不祥事がそんな事細かに記せる筈もない。ピカール中佐の内部告発とその挫折による秘密保護違反と革命以来の愛国軍への糾弾という反国民と問われかねない暴挙なしに事が動く筈は無いわけだ。

 なるほど、ピカール中佐は軍首脳により世間に知れては面目丸潰れな内部告発と真犯人告訴を封じられ左遷に継ぐ左遷の末、地の果てトリポリでひっそり紛争にでも巻き込まれて死んでくれんか、と追っ払われる。
 この首脳ら以下のハレンチ行為には軍人であるべく人生を捧げようという中佐には光輝ある軍を汚す無秩序信者への掃滅戦で応じるほかないのである。よって事に抗すべく、民間人の弁護士さらにクレマンソーほか新聞雑誌出版人、文筆家ゾラを味方につけて論陣を張り暴戻権力に対抗する。

 ドイツに負けても保身じゃ強いフランス軍もさすがで、この法廷戦、言論戦は教科書にある通りの痛み分けだが、氏は軍籍回復後、准将に昇り、のちにドレフュス擁護で知り合ったクレマンソーの国防大臣、そののちWWⅠの直前まで方面軍司令官に昇任している。
 この人物、軍内部からはユダヤ贔屓、武家の誼を弁えぬなど鼻持ちならないと敵だらけの様相でもあった一方で、ドレフュス側からは反ユダヤ主義を非難される妙な立場でもあるようだ。その逸話としてか、軍に戻り少佐となったドレフュスが大臣となったピカールへの談判に及ぶ場面があって、中佐にせよと迫る。年功序列か何か知れないがそれが相応であるという。あなたも今じゃ将官で大臣なのにというのだが、それをピカールは法を盾に却下する。
 互いに人生を大きく左右し合った格好のこの二人が私的に顔を合わせたのはその談判が二度目に過ぎないという。一度目もピカールが陸軍大学教官時代に学生ドレフュスへの評価に対して抗弁を受けた事であったというから、このふたり巡り合えばよくよく反りが合わないのだろう。
 反りが合わないといえば、ピカールは世間とも反りが合わないのか生涯独身、しかも人妻との関係を重ね、この重ねるのが人数で重ねたのか、国務大臣モレノ氏の細君との永年の度重なる関係なのか?ドレフュス擁護闘争下、それを暴露されモレノ夫人が離縁されたのち、やっと氏が元夫人に口説きを迫れば今度は元夫人が、それは違う、と、今のこのままを支持するという。

 この映画の妙なところは、社会問題としてよく知られた「ドレフュス事件」を覆した影の立役者の硬骨ぶりの傍ら、この通り、モレノ夫人との密会の数知れずという辺り、ただし、この二人が晴れて結婚に至るのではなく、密通から大っぴらな恋愛関係の継続に流れてゆく怪体な「清げさ」にありそうだ。実は事件なんか我がこれある限り辿るべき道筋のひとつに過ぎず、我ら一体にはどうだってよかったんだよ、と云いた気な二人を最後に持ってくるわけであって。
 倫理に基づけば到底容認できないという向きは映画のふたりの事はおろか、作った監督の行状もまた許せず、よってこの映画もまたわだかまりに苛まれながら眺めることになるのだろう。
 そうした観衆の反応を監督は想像しながらピカール氏とモレノ夫人の同伴を爽やかに描いたに違いない。このヤケに挑発的な態度が面白いかそうでないか、人をして誰が何と云うだろうかとその反応を楽しませるという、なかなかいけない映画である。
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