春とヒコーキ土岡哲朗

生きるの春とヒコーキ土岡哲朗のネタバレレビュー・内容・結末

生きる(1952年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

「生きる」ことは難しい。

主人公は、仕事場で“時間を潰している”だけで“生きていない”。
役所仕事でやる気などとうの昔に失くした人間。無欠勤の理由は、自分がいないと同僚が困るからではなく、自分がいなくても困らないことが分かったら自分が困るから、というジョークとまるっきり重なっている人生。
病院で出くわした男の言うとおり、「痛みが無いと、生きてる気がしない」のが人間。死に直面してようやく、自分の人生は何だったのかと焦り出す。ほとんど喋らずに、そわそわ感を出す顔の演技が迫力ある。

妻の死後、息子のためと思い再婚せずに暮らしていたが、息子の結婚後、息子にも相手にされなくなった。息子との思い出を回想しながら、現状に対する悲しみがあふれだす姿を映すカメラワーク。モノクロでもここまで伝わってくるかとびっくりした。

死のうとも思ったが死にきれなかった彼は、生きようとしだす。
部下を見て自分にはない活気を感じていた彼は、「生きて死にたい」と、生き方のヒントを求める。そして、「何かを作る(=形に残して人に託すこと)」で生きようと決意。学生たちの歌う「ハッピーバースデイ」が、彼に重なる。これが彼の「生き始めた瞬間」だと分からせる見事な演出で気持ちいい。

本編開始から1時間半、主人公の葬式。50分も残して主人公が死ぬという大胆さ。仕事場の人間たちが、死後に、主人公の生きた痕跡を辿っていく。
「わしは人を憎んでなんかいられない。わしにはそんな暇はない」。死を前にした彼に限らず、憎しみの感情は万人にとって時間の無駄なんだろうな。

精一杯生きて、自分の作った公園のブランコで息を引き取った主人公。「命短し」を歌う彼は、やりきった自分を讃えていた。
しかし、役所のいい加減さは何一つ変わらかった。やはり「痛み」を実感しないと、人生に限りがあることに気付けない。
ラストシーン、公園で遊ぶ子供たちを見届けて去っていく、主人公らしき人の姿。「生きる」という難しい行為を成し遂げた彼は、死んでなお、生きている人間のようにその場を見届ける。そう描写してもらえるくらい、彼は生きた。