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キートンの北極無宿のTnTのネタバレレビュー・内容・結末

キートンの北極無宿(1922年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

 鬼畜キートンが行く。今作品のキートンはかなり特異な存在で、いつものような無表情とアクロバティックな身体性がない。代わりに、むき出しの感情とゲスすぎる性格を備えて登場する。それゆえに他の作品よりも評価が落ちているのは納得笑。

 他のレビューを見て知ったのだが、どうやらキートンの恩師アーバックルの起こした事件に対し、アーバックルが有罪であるような主張をしたウィリアム・S・ハートという西部劇の役者がおり、キートンは彼を徹底的にパロディ化して糾弾したようだ。にしても、黄金のハリウッドなんて言うが先に述べた事件しかり、やたらスキャンダルやゴシップが渦巻いていて、彼ら喜劇役者の人生はほとんどすべてが売り物のようだったのだなと思う。

 パロディ。これはチャップリンが「独裁者」(1940)でヒトラーをパロディ化する遥か前のパロディである。またオーソン・ウェルズが「市民ケーン」(1941)で新聞王ハーストをパロディ化する遥か前でもある。この二つのパロディ作品が年代が近いというのも偶然ではなさそう。映画はつまり、ある人物を異化させてしまう強靭なイメージを持ち合わせていた。そしてどれも監督自身がパロディ化する相手を演じるという共通点を持っており、興味深い。自写のマゾヒズムという概念が映画誕生初期に見られる(中村秀之著「瓦礫の天使たち」参照)が、自写するマゾヒズムは次第に、自分の身体を器として使うようになる。その器に入れられるのは批難すべき相手である。まるでアイアンメイデンのように、自分のマゾヒスティックな身体のトゲトゲで相手を痛めつけられるのだ。あとこれは個人的なことだが、監督なんかが怒りを持って作品に表現をしているところに、自分はかなりアドレナリンが出る。今作をパロディとしていたのを知らずにまず見たが、彼の所作にどことなく怒り憤りを根元とするような力強さを感じた。「独裁者」も「市民ケーン」にもあの憤り故の所作の雄弁さがある。

 英語wikiで今作品を調べて、様々なパロディがあったことを知る。最初のガンマンの張り紙はハート本人の写真であったり、油のような涙をながすシーンもどうやらハートの演出のパロディらしい。そして、当時の観客はキートンがハートを徹底的にパロディしたことをわかっていたので、大いにウケたのだとか。今現在から見ると、そうしたコードを読みとることができないが。

 だが、キートンがここまで畜生を演じているのは返って清々しくて、思いの外楽しめた。「3-4x10月」のたけしが演じたクズヤクザみたいな、イカれすぎてもはや面白いみたいな(こう見ると、コメディとバイオレンスは紙一重である)。恋人とその相手とのキスシーンをキートンが背後から二発撃った時の衝撃(ここの二発撃つのも、たけし映画のあるシーンを思い浮かべてしまう、全然ちゃうけども)。そして字幕で出る「間違えた、ここは俺ん家じゃないし彼女は恋人でもない」のブラックな笑いたるや。そんでもって美人を見つけて浮気するクズっぷり笑。さっきは落涙して浮気を嘆いていたのに笑。そんでもって今作品のキートンはダントツでイケメン度が高い。途中でなぜかシュトロハイムの「愚なる妻」のパロディもするのだが(こちらのパロディはシュトロハイムから好意的だったらしい)、その時の軍服姿のキートンは、どこか花輪和一作品に出てくる男性のような耽美的雰囲気があった。イケメン度強いがゆえに、悪行もどこかカリスマ的匂いを醸す・・・とはいえもっぱら笑ってしまったが。

 キートンは今作品でおそらく初めて涙を流す。そして歯をむき出して怒りを見せる。それだけでも特殊な作品だ。一応パロディだからというのはあるが、感情が見えるとこうも彼の印象が変わるのは面白い。普段如何に感情なしでの作品が面白いのかが返ってわかる。逆にパロディでなくても、こうした感情を表現した時に彼に付随される性格はこうした荒れたものであったに違いないと感じた。彼の感情表現はきっと全てか無かのどちらかでしか成り立たないのだ。

 中盤の行ったり来たりが普段通りの演出なのだが、今作品の中では返って退屈なシーンともいえた。常連のクマ出没も何回やるんだ笑(絶対所属してるクマだろ)。そんなこんなでラストは蹴りをつけるために再び殺人というブラックさに戻り、また最後まで畜生な野郎になろうとしたキートンだったが・・・目が覚めるとそこは映画館だったというオチ。安心した反面、最後まで大暴れする姿も見たかった気がする笑。キートン作品は短くてサクッと見れるが、やはり映画の初期衝動や動機が見えやすいのか、映画の根幹を考えさせてくれるたくさんの魅力を持っていると思った。
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