春とヒコーキ土岡哲朗

ヤクザと憲法の春とヒコーキ土岡哲朗のネタバレレビュー・内容・結末

ヤクザと憲法(2015年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

ヤクザになる道が自分の人生にあった人は、どう許されればいい?


自分も世間の人も、たまたまヤクザじゃないだけな気がした。

この映画で密着されている中に、いかにもな強面の人もいるけど、こんなおじいさんいるよな、くらいの人もざらにいる。ヤクザや法に触れる人をフィクションのように感じていたけど、実在しているし、劇的なことばかりしてるのではなく、生活をしている。
もちろん犯罪の部分は良くないんだけど、この生活しか選べなかったからヤクザになり、ヤクザを続けている人たち。「選べなかった」って、もっと他にも道はあっただろと言われるかも知れないけど、他の道もあったのにそれを選んでしまったことも含めて、それしか選べなかった人たち。

そう思うと、芸人やら「やりたい道を選んだ」系の人もそうだし、職業に関係なく何かから逃げた経験のある人は、みんなたまたまヤクザじゃなかっただけなんじゃないかと思った。

特に、このドキュメントの中では2人の若手がいるが、一人は何らかの犯罪で懲役を受けたあと他に行き場がなかった。もう一人は、変わり者として学校でいじめられて、一般社会からドロップアウトしてきた。2人とも、選択肢がなくてこうなっている。

また、この映画を通して、ヤクザがヤクザでいるのは、人とのつながりを求めた結果でもあるんだなと思った。一人で勝手に暴れる犯罪者ではなく、わざわざ「集団」の一員として籍を置いている。若手からしたら、規律や上下関係の厳しさもあるし、上の者からしたら下の世話をしたり、統制を取らないといけない。そんな面倒があっても、親分子分や兄弟がいる形をとっている。
人との調和を求めているから、わざわざそんなところに属している。はみ出し者の受け皿になっている。
「だからヤクザを残すべき」といったことでは全くなく、なくすならそこも向き合わないといけないよ、という話。ちゃんと他の形で受け皿を用意しないとヤクザはなくせないし、もしも代わりの受け皿なしでヤクザを根絶させたら行き場のない人が出てくる。


犯罪が目の前にある異常。

そうは言っても、生活のために犯罪をしているのは良くないし怖い。
カメラマンが「銃はないんですか?」と聞いたときに、若手ヤクザが「……ないじゃないですか?それは日本の法律で、銃刀法違反ですよね?」と変な間があってからしゃべる様子は、明らかに空気が変わって緊張が走った。
また、別のヤクザの車に同行したらおそらく薬物の売買の現場に遭遇してしまい、カメラマンが聞いてもはぐらかされるシーンもあった。ヤクザも実在する人たちなんだと感じてから不意打ちで来る犯罪にヒヤっとする。

犯罪が日常に入り込んでくるのが、こちらにとってはホラー的な怖さだが、本人たちにしてみればやっぱり犯罪が日常なんだなと思った。それならやっぱり、世間から白い目で見られるのは仕方がない。「実はこの人たちも同情できる人間なんだよ」では終われない部分。


夕刊を捨てているくだりは笑ってしまった。

若手ヤクザの一人が、親分に「夕刊がないぞ」と言われる。掃除をした彼が、自分がゴミを捨てたゴミ箱を確認すると、がっつり新聞紙がそのまま入っている。それをなかったことにしようと再びゴミ箱に押し込めてフタをする若手。なのに、親分に「捨てたかもしれないです」と中途半端な嘘の報告をする。隠蔽したなら、「分からないです」でいいじゃない。繰り返す「捨てたかも知れないです」の言い方も、若干の開き直りが偉そう。「朝刊とチラシはとっておけと言われて、夕刊はいらないと思って捨てたかもしれない」と言う彼に、親分が「別に捨てんでいいぞ」と怒らずに諭すのが、どんだけ譲歩されてるんだと思って笑ってしまった。

でも、彼はこういうところが学校では受け入れられずにいじめられたのだろう。そう思うと、映像で見て面白がることと、嘲笑してつまはじきにすることの違いも曖昧な気がして身につまされる。