春とヒコーキ土岡哲朗

シン・エヴァンゲリオン劇場版の春とヒコーキ土岡哲朗のネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

他人と関わる責任の裏には、他人と関われる喜びがある。

シンジの他者との接し方物語、完結。
使徒との戦いがメインではなく、エヴァに乗ることを通じて「社会の中で役目を背負わされる」ことをメインに伝えてきたエヴァシリーズ。
乗らないと存在価値を認められず、乗りたくもないのに乗ったら下手だと怒られた『序』。
乗ることに迷いのない他人と出会い、自分なりに乗る目的を見つけた『破』。
それが悪影響を及ぼしたら乗るなと責任を追及され、乗ることが自分の道という自負を満たせないことに苦しみ、他人に分からせるために乗ったら失敗してしまった『Q』。
エヴァに乗ること=活動して他者に影響を及ぼし社会に参加する、という象徴。『Q』の結末により現実を直視できずに心を閉ざすようになったシンジ。それが立ち直るまでの前半と、父ゲンドウと対峙して独りよがりを反省する後半。

他者と影響しあう覚悟のいる世界。
トウジの義父からは「喋らないのはいいが、出された貴重な飯を食べないのは失礼」と叱られるシンジ。自分が閉じこもるばかり、他人から差し伸べられた手を受け取らない失礼。アスカからは、「生きたくないけど死にたくもないからそうしてるだけ」と言われる。
戦うことに迷いのないアスカはシンジにいら立つ。そこはアスカが、せいいっぱい自分を律して強くあろうとしている人で、シンジのウジウジに引っ張られる可能性を自覚しているから。
レイは、人との関わりを新鮮に味わい、仕事=みんなで汗水垂らすことの嬉しさを享受していく。仲間がいて、人が何かしてくれて、人に感謝されて。
シンジはアスカからの責め、レイからの寄り添いを受ける。成長・向上を求められたときの他者からの2パターン、厳しい批判と優しい寄り添い。シンジのように自暴自棄でうちひしがれている状態では、黒レイのように純粋に活動を楽しむ気持ちを見せてくれる人の後押しが一番。というか、それしか入ってこない。弱いけど、そんなもん。
その黒レイが消滅してしまったとき、シンジは自分も彼女のように立派に人と関わろうと決心。人間、人と関わるだけで立派。嫌になり動けないときもあるが、そのときは再起できるように時間をかけて人と関わる喜びを思い出せばいい。そこでようやく厳しいアスカに「ぼくやるよ」と向き合いに行ける。

自分の願いと独りよがりの違い。
シリーズの大詰めは、人類補完計画を進めるゲンドウとの戦い。ゲンドウは、亡くなった妻ユイと一緒にいるために、生者死者含めて人類が肉体も精神も境なく一体になった状態を望んでいた。その様子をミサトは、「たった一つの願いのため」の行動と表現。それは、『破』でエヴァに乗る理由をレイを救うためとしたシンジを「あなた自身の願いのために」と同じだ。
ゲンドウがやったことも、活動のモチベーションを自分の願いと結びつける、という点だけ見たらやる気を出したシンジと同じで正しいと言える。しかし、ゲンドウの場合は他人に一切の権利を許していないところが悪である。サノスと同じで、自分が真剣に考えた正解が絶対で、他人の気持ちは視野に入れていない。
置かれた環境の中で自分に課せられた活動を、自分のためにやり、他人に影響を与える。その影響をどう処理するかは他人にゆだねられるべき。そのやり合いが社会。
ゲンドウは、他人の承認なしに全員強制で巻き込む補完計画をしようとしているし、もしそれが成功したら全員一体化して他人も自分もなくなり、他人には反応の権利もない。シンジは、そんなのはダメだと分かるようになっている。
シンジも独りよがりに活動した結果が『Q』のラスト。周りが全員やめろと言ってるのにやろうとした点ではゲンドウと一緒。今回のシンジは、自分も一回通った過ちなので、ゲンドウが正しくないと分かり、対抗することができる。
ゲンドウの葛藤すら聞いてあげ、閉じ込められていた『破』のレイに平和な世界というお返しを望み、アスカの強さの理由が強がりであることを理解して包み込み、カヲルくんとはゲンドウ含め「同じだね」と共感し合い、マリの迎えで他人と関わって自分でいられる恩恵を受ける。シンジは皆と向き合った。

エヴァは既に完結していたことをここで分からせた。
終盤は、旧劇場版とざっくり言えば同じと言える展開。旧劇を観たときは庵野監督が追い詰められてあんな結末になったのかと思っていたが、改めて同じことをするということは、旧劇も庵野監督のエヴァの結末として正しかったんだ。『Air/まごころを君に』の説得力がここに来て頑強になった。もちろん、ただ同じなのではなくブラッシュアップされていた。今作の方が、ゲンドウの心理描写が詳しくなっていたのと、共感しやすい側のシンジが対峙することで受け取りやすくなっていた。最後、巨大なゲンドウが巨大なユイを後ろから抱きしめてフェードアウト。そして、エヴァパイロットたちはエヴァが必要ない平和な世界で暮らしているシーンで終わる。まさしく、TV版のラスト「父にありがとう、母にさようなら、そして全てのチルドレンにおめでとう」を具体的に描いたラストだった。

エンタメとして面白かった部分。
『Q』の殺伐から一転、自然のある村で過ごし、レイが畑仕事をするのどかな風景。
旧劇ではシンジとディープキスをしたミサトが、シンジと同い年の子を持ち、今作ではシンジの疑似的な母親の要素を持つ。アスカが「ガキに必要なのは恋人じゃなく母親」と言ったように、シンジはミサトを女性として見たこともあれば、母性を求めもした、ということ。そんな男のだらしない性質を、旧作でのディープキス相手を疑似母親にする世界もある、というリブートならではの形で描いていて面白かった。

メタ要素で、全ての歩みが無駄じゃないと証明。
シンジの絵が、スタッフへの指示の入った絵コンテになっていく。テレビ版や旧劇と似た演出。エヴァはアニメ作品で、これを作っている人がいて、これは現実に存在する人からのメッセージなんだと示されている。
庵野監督にとって「活動」はアニメを作ること。虚構のシンジだけでなく、庵野監督や関係者も、アニメを見られるという形でこちらに影響しながら、自分の活動をしている。
また、テレビ版や序破Qのタイトルも劇中で表示される。今までの全てのエヴァ=作り手の活動の積み重なり。他者に影響を与え、批判され、次の道が分からずに苦しみ、でも活動するしかなく、立ち直ってきた足跡。シンジの物語は、庵野監督のこれまで難癖をつけられていた歴史と重なる。その説得力になるのならば、エヴァに難癖をつけられてきた過去も含め、1つも無駄なことはなかった。