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ラ・ラ・ランドのnetfilmsのレビュー・感想・評価

ラ・ラ・ランド(2016年製作の映画)
4.7
 ロサンゼルス国際空港より東に伸びる高速道路。遠くにダウンタウンの摩天楼が見えるフリーウェイ上では、お馴染みになった大渋滞の光景が繰り広げられる。季節は冬、クリスマス・シーズンの気温29℃~30℃の蒸し暑い昼間、開け放たれた窓からはラジオ、ロックにポップス、ヒップホップや雑多なノイズが聞こえて来る。その不協和音は段々とヴォリュームを増し、堪らず外に出た男女が突然歌い出す。まるで前作『セッション』のクライマックス10分間のようなカタルシスに、私は仰天し、即座にハートを鷲掴みにされた。赤・青・黄・緑など極彩色に彩られた演者たちのTシャツの色、ボンネットの上でジャンプする姿をカメラはただただ長回しと180度パンで据える。105号線と110号線の分岐点となるロサンゼルスの高速道路をあえて数時間貸し切り、エキストラ総出で撮影された圧巻のミュージカル場面は、演者たちのタイミングばっちりなクラクションで現実へと引き戻される。Thelonious Monkの『Japanese Folk Song 』が流れる中、フリーウェイにはロサンゼルス中心部へと足を踏み入れようとする2人の若者がいる。アメリカ西部ネバダ州、ボールダー出身のミア(エマ・ストーン)は女優になる夢を叶えようと、この街で6年も辛抱している。ワーナー・ブラザーズ内にあるコーヒー・ショップでバリスタとして働く彼女はたまに来る大物女優に緊張が隠せない。ミアはオーディションの連絡で少し発進が遅れたことでクラクションを鳴らされ、後ろから横並びになったセバスチャン(ライアン・ゴズリング)は嫌悪感丸出しの表情を浮かべる。これが2人の初めての出会いだった。

 前作『セッション』におけるアンドリュー・ニーマン(マイルズ・テラー)とフレッチャー教授(J・K・シモンズ)のように、最悪な運命の出会いを果たした2人の再会の場面は随分あっけなく訪れる。ルーム・シェアする女友達に置いてけぼりを食らったミアは深夜の雑踏の中で漏れ聞こえて来た繊細なピアノの音色に心を奪われ、恐る恐るドアを開ける。古いJAZZにしか興味がないフリー・ジャズ原理主義者であるセブと、レストラン店長でフリー・ジャズを忌み嫌い、専らBGM的な演奏を徹底させようとするビル(J・K・シモンズ)との対立、そこに後に加わることになるミアの三角関係は間違いなく前作同様の構造を備えていると云っていい。数ヶ月後、2人は何度目かの再会を果たす。プール・パーティの席上、金に困ってA-HAの『Take On Me』のカヴァーを請け負うセブの様子は心底ダサく、軽蔑すべき存在に映るが、彼はプライドだけは捨てていない。JAZZピアニストを志す音楽家と、映画女優を目指す女の淡い友情に塗れる恋の行方は、歌手志望の女フランシーヌ・エヴァンス(ライザ・ミネリ)と時代遅れのサックス奏者であるジミー・ドイル(ロバート・デ・ニーロ)の悲恋を扱ったマーティン・スコシージの『ニューヨーク・ニューヨーク』を真っ先に連想させる。今作には春・夏・秋・冬や5年後の描写は大写しで出て来るが、どういうわけか年号の表記はどこにも見られない。携帯電話を持っていることから現代の物語だと推測されるが、アール・デコ建築、セブの乗るBuick Riviera、ルーム・シェアしたミアの部屋に飾られたイングリッド・バーグマンのポスターなどが、まるで1つの時代に限定されることを忌み嫌うかのように次々に立ち現れるのである。

 ライアン・ゴズリングとエマ・ストーンはまるで往年のフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのように立ち振る舞う。シネマスコープ・サイズのミュージカル、気品漂うJAZZの調べ、鮮やかなテクニカラーの街並みや衣装は、映画の参照元としてヴィンセント・ミネリの『巴里のアメリカ人』やマーク・サンドリッチの『トップ・ハット』などが考えられるが、同時に60年代ヌーヴェルヴァーグ華やかなりし頃のジャック・ドゥミの『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』の影響も色濃い。そう思っていたらしまいには終盤、叔母の暮らしたパリがミアの人生を緩やかに一変させるのだ。演技の勉強として、月曜日の夜に待ち合わせしたはずの映画館ではニコラス・レイの『理由なき反抗』のフィルムが流れている。席について程なくして、カップルは互いの気持ちを確かめ合う。だがその時35mmフィルムは無情にも焼け爛れ、場内は暗転する。焼け爛れる寸前ではジェームズ・ディーンがグリフィス天文台に登ろうとする辺りで見えなくなる。その後2人はグリフィス天文台に登り、無重力の中を宙に舞う美しいシークエンスへとなだれ込む。このようにチャゼルは1950~60年代の絶頂期のミュージカルに情熱を注ぎつつ、映画史的な視点を巧みに盛り込む。再び導入場面を思い出せば、前作『セッション』のクライマックスの10分間のような感情の洪水が今作の導入場面では起こるが、それを堰き止めたのは演者たちの慣らしたクラクションの音に他ならない。また別の場面では、ジョージ・マイケルという心底笑えない問いかけの後、マウント・ハリウッド・ドライヴを歩く孤独者たちの愛のセッションをかき消すのは、ミアの恋人であるグレッグからの着信音である。2人きりのサプライズ・パーティの席上、未来のすれ違うカップルは口論になるが、丸焦げになったパイの不快な警報音が2人を現実へと引き戻す。或いは田舎に帰り、実の父親と食事するミアの元に、突然鳴り響く不快なクラクション音を思い出されたい。またはグレッグと友人との会食の席上、スピーカーからセブが弾いたあの曲が流れ、ミアは突然現実から夢へと引き戻される。

 今作では夢のようなミュージカル場面は常に、不快な現実音によって掻き消され、しばし現実に呼び戻される(逆もまた然り)。若干31歳ながら、監督であるデイミアン・チャゼルの仕立ては実に細かく、それぞれの糸の結び目までも丁寧に縫い上げている。監督だけに留まらず、衣装・撮影・音楽・照明に至るまで繊細かつ大胆な仕事振りに心底痺れる。映画は1950年代にも見えるレトロな街並みで繰り広げられる現代の物語を未来へと押し進めながら、過去と現在が綴れ織りのような様相を見せる。導入部分で渋滞していた高速道路と同じく、ミアの行く手はまたしても渋滞し、フリーウェイから下道へと逸れる。彼女は満ち足りた幸福そうな表情を浮かべながら喧騒の聞こえるドアを開けると、ふいに現実と夢とが美しく交錯し、心を掻き乱す。近年ではかつてのアメリカを舞台にしながらも、実際はカナダやオーストラリア、ヨーロッパで撮影された作品が主だったが、デイミアン・チャゼルの信念はCGも使わず、架空の撮影地も使わず、あえて膨大なバジェットのかかるロサンゼルスでの撮影に固執する。その上、ライアン・ゴズリングには3ヶ月間みっちりピアノを訓練させ、2人のダンス・シーンには2ヶ月もの訓練を要した。そうした長い準備期間を経て、辛抱強く撮影された映像には役者たちの気迫溢れる生の姿が確かに映る。ゴズリングのピアノの演技には幾つかのミス・タッチはあるものの、長回しでしか据えられない役者の迫力と、それを最後まで見守った監督との信頼関係が露わになる。途方も無いほどの大きな夢を実現した主人公たちの姿は、同時にかけがえのない夢を失った悲しみに満ち満ちている。クライマックスで見た幻視者たちの夢に、エンドロールまで溢れる涙を抑えられなかった。
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