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世界で一番悲しい音楽のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

世界で一番悲しい音楽(2003年製作の映画)
3.5
[悲しみは幸せの裏側に過ぎない] 70点

マシュー・ランキンも恐らくアンビバレントな感情を抱いているであろうカナダの偉大なる実験作家ガイ・マディン御大の長編六作目。キャリア唯一のミュージカル長編である本作品は、彼の作品の中では一番ポップで、一番豪華で、一番露骨な作品と言えるだろう。主演はその後の映画でも何度か起用することになるイザベラ・ロッセリーニであり、その父ロベルト・ロッセリーニの作品を参考にしながらマディンと二人で映画を作っていった。そして、マディンと共同脚本家ジョージ・トールズは、基本的なプロットをカズオ・イシグロの本から借りたものの、残りは全部書き直したようだ。

時は1933年のウィニペグ、世界恐慌の真っ只中で、伯爵夫人ヘレナは自社のビールのプロモーションとして"世界で一番悲しい音楽"を探すコンテストを開催する。失業中のブロードウェイ興行師チェスターは10割カナダ人でありながらアメリカ代表として参加を決め、その兄ロデリックと父フョードルもそれぞれセルビアとカナダ代表として参加を決める。まぁ、ガイ・マディンなんでそんなヌルいはずもなく、チェスターの恋人で自らを"色情狂"と呼ぶナルシッサは、実は息子を失ったことで健忘症になった兄ロデリックの妻であったり、チェスターはまた伯爵夫人とも愛人関係にありながら、その父親フョードルも伯爵夫人のことが大好きで、彼女の両足切断事件に二人共関わっているなどの深すぎる業も絡んでくる。健忘症、親子で同じ女性を好きになるなどこれまでのガイ・マディン作品の要素を華麗に受け継いでいる。最終的には伯爵夫人を巡るフョードル対チェスターの戦いが、アメリカにかぶれた後者によるクズすぎるスカウト活動によって、カナダ対アメリカのしょうもない代理戦争へと発展し、絡み合った愛憎関係は更に下らなさを増していく。

音楽の国別バトルなので、実際にバトルするシーンも登場する。ブザーが鳴ったら交代するというルールが、バトルに振り切れる瞬間にそれを破っているという興奮はあれど、観客がビールを飲む姿や曲の解説をするラジオDJの声がオーバーラップすることで、誰も"悲しい気分"になるどころか拝金主義まっしぐらな様子が見て取れる。加えて、地道に自分の腕で勝とうとするカナダ代表の父フョードルに対し、凍えているメキシコ代表や葬式で歌った女性などを雇って勝とうとし、"それこそがショービズだ"とヌカすアメリカ代表チェスターの中にも、拝金主義というかアメリカの帝国主義的な側面が前面に出ている。クライマックスとなるチェスターのレビューシーンは強烈にアメリカの帝国主義的な側面を。ここまでに負けた国々の代表者たちが奏者となり、インド人の踊り子たちはイヌイットの衣装で着飾り、審査員たる伯爵夫人までもが舞台に登場するのだ。

本作品に登場するガイ・マディン的アイテムは、ロデリックが保管し続ける死んだ息子の心臓と、フョードルが伯爵夫人にプレゼントするビールジョッキになるガラスの義足だろう。前者が特に仕事もせずに退場してしまうのは勿体ないが、後者は足フェチへと華麗に変換され、数多くのマネキン足が実らぬ恋の象徴のように天井からぶら下がっている、なんとも不気味なシーンを構成している。極めつけは、伯爵夫人へプレゼントしたガラスの義足で、ここに夫人の会社のビールをブチ込むことで、彼女が嬉しさのあまり足を上下する度に、泡が足の付根から足先へ行ったり来たりする、いかにもマディン的なシーンが完成する。

祖国を裏切り、兄嫁を寝取り、平気で葬式ですらスカウト活動に励む血も涙もない興行師かぶれチェスターが、その全てに裏切られることで本当の"悲しみ"について知る教育的な映画だったのかもしれない。自分の死という最も悲しい瞬間に"私は幸せだ"と叫ぶ彼の中には、皮肉も目覚めも感じ取れる。マディン作品の中では後味が一番いい。
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