netfilms

出稼ぎ野郎のnetfilmsのレビュー・感想・評価

出稼ぎ野郎(1969年製作の映画)
3.2
 2組のカップル、1組の肉体関係、1組の女とヒモ。彼らはアパートメントの裏庭で、誰かの部屋で、酒場で無為に時間を浪費している。そこで交わされる言葉は不毛な噂話であり、建設的会話はどこにもない。今作は第二次世界大戦後に育った若者たちの倦怠感・焦燥感をこれまで以上に強調する。噂話に飽きると、とりあえずビールを飲むか、円卓を囲んでトランプ・ゲームに興じるかしかない。絶望的な不毛が彼ら世代固有の思想であり、それ以上でもそれ以下でもない。映画そのものに大それた物語などなく、男と女はくっついたり離れたりを繰り返すのみである。アパートメントという限定された空間の中でしか彼らは行動しない。例えば外で勤労したり、買い物に出かけたり、街を散歩したり、そういう未来に繋がりそうな意欲を今作の登場人物たちからはまったく感じることはない。ファスビンダーは彼ら若者たちの失望する姿を前作『愛は死より冷たい』以上に演劇的なフレームワークで据える。ディートリヒ・ローマンのカメラはフィックスされ、あまりにも動きがない。例外として裏庭を歩く2人の描写だけは移動撮影(後退撮影)されているが、それ以外のショットは全て固定ショットなのである。

前作『愛は死より冷たい』では犯罪映画独特のガン・ショットやカー・チェイスなどのアクション・シーンがあったが、今作には明確なアクション・シーンはほとんどなく、全ての演技が役者の台詞回しと表情に重きを置いている。固定されたフレームの中にいた何人かの男と女がフレームから外れ、また何人かがフレームの内側へ入ってくる。そうして積み上げられたフレーム・イン/アウトを繰り返す全体ショット、それに付随して女同士、男同士、それに男と女の2ショットがまるで平衡感覚を失うかのように散りばめられている。ここには彼ら若者たちの決して饒舌ではない倦怠感を帯びた言葉が秀逸で、救いようのない日常の断片としてそこに横たわる。だが多くの60年代後半の若者映画にありがちな無軌道な若者たちの退廃ぶりを描いた作品というよりは、むしろただそこに若者たちがいるという事実だけに留め、彼らを決して否定も肯定もしていない。固定されたカメラの前で彼らは即興を繰り返すのかと思いきや、徹底して笑顔のない無表情、あえてぶっきらぼうに棒読みしたかのような台詞回し、硬直した身振り・手振りの場面が延々続いていく。

68年と言えば、若者たちにとって世界的に学生運動が盛んな季節だったと言える。彼らは積極的に拡声器やビラ、プラカードを掲げ、シュプレヒコールのような大行進を繰り返し、武力行使に出ることもしばしばあったが、今作内の若者の描写はこの時代の若者の政治思想が外へ外へと向かうのに対し、むしろ内へ内へと向かっている。前作『愛は死より冷たい』でも3人の男女の緊密なトライアングルがゆっくりと崩れていく様子を描いていたファスビンダーは、前半の若者たちの淡白な関係性・会話が延々と続くのを断ち切るがごとく、自らが演じたギリシャ人男性を波紋を引き起こす劇薬としてふいに登場させる。ギリシャからやって来た外国人労働者ヨルゴスは下手くそなドイツ語からイタリア人だと勘違いされるが、ギリシャ人だとわかった時の反応はあまりにも象徴的である。男どもは下手くそなドイツ語を嘲笑い、女どもは日常とは違う性的好奇の対象として羨望の眼差しを向けている。閉塞感に覆われた若者たちの空気の中に突如入り込んできたドイツ人とは違う外国人が、内へ内へと篭るばかりだった彼らのファシズム的排外主義を露呈させる。この外国人への剥き出しな人種差別はこれ以降のファスビンダー映画でも度々繰り返される。またファスビンダー演じるヨルゴスをただ一人庇い立てすることになる印象的な女性を、初期ファスビンダー映画のミューズであるハンナ・シグラが演じている。ファスビンダーの演劇を見たフォルカー・シュレンドルフは『バール』の主人公に彼を起用することを決めたが、今作は『愛は死より冷たい』と『バール』の間の数週間の余暇を使い撮影された。この年ファスビンダーは3本の快作を残し、演劇界から映画界へ電撃的な殴りこみをかける。そのバイタリティと創造性は単に初期衝動の名の下に留まらず、彼の才能を一躍世に知らしめることとなったのである。
netfilms

netfilms