ひろゆき

それからのひろゆきのレビュー・感想・評価

それから(1985年製作の映画)
3.3
銀幕短評(#680)

「それから」
1985年、日本。2時間10分。

総合評価 65点。

この小説(映画のもととなっている夏目漱石の小説)と同様に、漱石の「彼岸過迄」は群を抜く わたしの愛読書です。高校の時代から何十回も読んでいる。映画に例えるとほかの映画になどわき目を振らずに これらばかり観ているという感覚です。

ひとつは、かれの文体が魅力です。むだのない削がれた、私情の入らない簡素な文章。簡素であればあるほど、その切れ味はするどくなる。躊躇なく、ものごとの核心にせまる。それは登場人物のせりふに如実にあらわれる。ふたつめは悩める主人公。かれら(つねに男です)のなやみは 単純にいうと色恋がおおいのですが、いつも質素な邪気のない女性に惹かれ、残念ながらその結末は仕合せとはいえない。

この映画はよくできていると思います。有名俳優を大量投入し、草笛光子さんをはじめとする芝居も悪くない。けなすとすれば、原作のセリフにあまりに忠実にこだわったため、(現代社会の)現実から遊離するいいまわしをうっかり使ったこと。もうひとつは、電車の寓話の畳みかけや遊女の頻出など、原作にない、ものがたり世界にそぐわないノイズを与えてしまったことです。あと、最後のセリフを端折ってしまったことも残念です。

いっぽうで、ひとつこの映画でたいへん優れている場面は、代助が三千代に小切手を渡すシーン、その二度目。原作にはない演出ですが、映像でふたりの心情をふかく伝えています。あれはすばらしい。


* * * *


むかし漱石についてすこし触れたので、採録します。「ポリーナ、私を踊る」の回で、こう書きました。つまり、

クラシック(古典)とコンテンポラリ(現代)の対照 は、この映画のテーマの重要なひとつです。

“古典“ は それが(当時)この世に問われたときは、すべてが “コンテンポラリ” だったわけですが、長いときの流れを経て、無数の観衆の審美をへて生き残ったものが いま “古典“ と呼ばれています。つまり時の淘汰(審美の目も世につれるので)のないところに古典は生まれない。審美が古典を選りすぐり 鍛え上げるということもできる。書物、絵画、彫刻、建築、音楽、映画など。

淘汰が もし世にないと仮定すれば、現代には古物(こぶつ)があふれてしまい、すぐれたものを鑑賞するための選択と抽出ができなくなってしまう。はずですね。

しかし、現代の科学技術は異様に発達してしまっているので、電子的なアーカイブはコピーの物理的な容量の制約を打ち破いてしまっている。わたしの家の本棚の空き容量はたかだか知れていますが、わたしのスマホやタブレットの電子書籍には夏目漱石全集122冊 15万ページが収められており いつか読まれるのをひっそりと まっている。

同様に動画配信サービスを使えば、スマホやタブレットに映画を何本もダウンロードして、戸外で視聴もできる。配信会社はわたしの視聴履歴を分析して次の候補を勧めてくれる(が、あいにくヒット率は極めて低い)。この調子でいくと、立体映像の技術の発達で、自室でルーブルとメトロポリタンをハシゴすることなど雑作なくなる。

これはこれでスゴイ世界ですが、淘汰すべき審美はどうなるのか。「レディ・プレイヤー 1」の世界がすぐに現出してしまう。わたしはむしろ「リュミエール」にみた “コンテンポラリ(= 同時代性)” の世界に踏みとどまりたい気もしているのですが。

モネの絵画「印象派・日の出」1872年や ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」1913年は公開当初は世の酷評を受けたといいます。
夏目漱石の「彼岸過迄」1912年、ロダンの「考える人」1880年、ライトの「(旧)帝国ホテル」1923年、チャップリンの「キッド」1921年。これら作品はそれぞれの芸術分野で、クラシックとコンテンポラリ(あるいはモダーン)との結節点のように思いますが、おもしろいことに いずれも100年くらい経年し、立派に生き残っている。

とすると 100年(3、4世代でしょうか)の風雪に耐えたものが、クラシックと呼ばれる殿堂の入り口に立つことができるといえるのかもしれません。

社会共通の価値観の揺らぎ、について、つねに揺らぎはあると思います。わたしは「春の祭典」が好きですが、酷評が去ったからといっても、そうでない現代人もたくさんいるはずです。揺らぎは地域や国によって、世代によって 異なるでしょう。しかし揺らぎがあるからこそ、敗者復活の道も残されていますよね。揺らぎがないとコワイ。文化の多様性が失われ、次の文化の創造性も損なわれる。

あとは情報伝播のスピードがからんでくる。バンクシーという謎のアーティストがいるぞいるぞ、となると、日本でもアメリカでもYouTubeでも、ひとびとがいっせいに大騒ぎしますね。むかしの 1年がいまの 1週間になったようだ。こうなると、ライバルと戦えるチャンスは増えるかもしれないが、後進に追い落とされるリスクも高まります。

ともあれ、わたしとしては、科学技術の発達はこのくらいで止まってくれていいと思っています。いまでもスマホの使い方がむずかしいといって、次男に泣きついて教えてを請うているくらいですから。

* *

さて、わたしはいったい何を論じたいのだろう?
ひろゆき

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