ひろゆき

異人たちのひろゆきのレビュー・感想・評価

異人たち(2023年製作の映画)
3.9
銀幕短評(#727)

「見知らぬどうし」(原題)
2023年、イギリス/アメリカ。1時間45分、公開中。

総合評価 78点。

アンドリュー・ヘイの映画は、ここフィルマでは4作しか掲載されていないのですが、これで みな観ました。「WEEKEND」77点、「さざなみ」82点、「荒野にて」77点、そして本作です。わたしの中でのかれは ほぼ80点で、とても評価のたかい監督です。

しかし、この映画をわたしはよく理解できなかった。事情でまえの晩に2時間しか ねむっていないことも大きいのですが、わたしの無知がひどい。専門語で「クィア」というワードが何度か発声されるのですが、その意味をまずしらないし、知ろうと事後にあるていど調べてもよくわからない。LGBTQ+のQ?かもしれないと。性について、知ったかぶりで つべこべあちこちで乱筆をつかっているのに、こと少数派の性、のありかたを理解していない。まったく恥ずかしいところです。それをふまえて 以下に書く内容も当て推量や腰だめの話しで終始します。読まれて不快に思われるかたが多いと思います。わたしの誤りを見とがめる という寛大な度量をもっておられる方は、ぜひお叱りをください。こんご理解を深められたら、すこしずつでも修正、補筆しようと思います。

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この映画は非常に精緻につくりこまれた名作です。まるで寄木細工のようだ。しかし、不遜ないいかたをすれば、退屈です。きれいに まとまりすぎている。みなさんの反感を買ういいかたをすれば、もの足りなさを感じる。ヘイの四部作のなかでは最高傑作で、かれの持ち味をいかんなく発揮できているのだけれど、はなしのスケールがちいさい(ほんとうにごめんなさい)。そういう意味で、わたしは「荒野にて」のほうが好きです。

わたしがこの映画を観終えたときの(あるいは観ている最中の)思考のポイントは、たったふたつに集約されます。ひとつは少数者(マイノリティ)の受けるいわれなき差別やそこからもたらされる苦しみの観点。もうひとつは、disability(しっくりくる日本語が みつけにくいですが、たぶん 不能 で通じると思います)の相対的な比較による「不能」の自認という観点です。
ほかにももちろん、相手に対する思いやりや愛情、親子の情愛といった論点も多々ありますが、わたしの思考はそのあたりの「工業生産品の量産的な」感情(ごめんなさい)を 今回はすべて素通りしました。眠かったからです、たぶん。

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いわれなき差別について、
少数者は、かならずいわれなき差別を多数者から受けます。かれら多数者は おもには自分を正当化する目的で、少数者を圧迫する。これは不可避です。このメカニズムは世界中で、あらゆる時代で 繰り返されてきていますが(戦争を生んできてもいますが)、ながくなるのでここでは再掲しません。くわしくは、「ブラック・クランズマン」を見てください。

差別からもたらされる苦しみについて、
「カランコエの花」の日本の高校生のおんなの子 “さくら”はレズビアンですが、クラスの多数者から差別と指弾をうけて、じぶんがレズビアンであることをクラス中のみなに告白(come out)します。差別を毅然とはねのける、これはとても勇気のある行動だと わたしは思います。

アダムの繊細さ
さくらと比べると、アダムは非常にこわれやすい。ガラスのこころをもっています(という映画だから)。そういう、ひとのこころのひだを丹念にえがくことを目的とした映画であり、それが大成功を収めているのですが、わたしはつい思ってしまう。どうして高校生のおんなの子が克服した試練を、人生経験のながいあなたは克服できないのかと。

Disability(不能)の自認について
「いろとりどりの親子」83点 という アメリカ制作の すてきなドキュメンタリ映画があります。自閉症者、ダウン症者、身体障害者、ゲイのひとなど、いわゆる少数者(差別されやすいマイノリティ)のひとが たくさん出てきます。そのなかで ひときわ わたしの目を惹いたのは、小人症のひとびとです。ふつうの体格のひとの半分くらいの身長しかないひとびと。世間の好奇の目にさらされ、聞くに堪えない陰口を浴び、尋常とは思えない差別に圧迫される。でもなかには、強靭な精神を維持して、まいにちの人生を 存分に楽しんでいるひとが もちろんおられる。かれらがもつ障害(おもには身体的なもの)と精神的なハンディキャップ(じぶんが不利だと思う本人の心情)とを考えると、本作のアダムの心根(こころね)は、じつに虚弱で たよりない。と、みずからの境遇をかえりみず、わたしは思います。いたみを単純にひととくらべることはできない。右腕を肩から先に失くしたひとと、視覚をほとんど うしなったひとと、いたみや苦しみを不用意にはくらべられない。しかしわたしは思います。アダムは 障害をなにも負っているわけではないと。しかしなぜだか かれはハンディキャップ(じぶんが不利だと思う本人の心情)をつよく感じてしまっている。つまり、不能の自認がつよすぎる。ただたんに性的な少数者であるにすぎないのに、と。おいおい もっとしっかり生きてくれよ、自縄自縛になるなよ、とわたしは思います。この映画にふかく感動した方々、ごめんなさい。でも わたしも じゅうぶんなレベルで感動しましたから。ヘイ、かれは やはりすてきな監督ですし 本作もよい映画ですね。

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わたしのつぎのミッションは、「クィア」ということばをよく理解することです。これはマストアイテムです。

(そして そのミッションに、これから取り組みます。)

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(おまけ)

「クィア(Queer)(にかぎらず性的少数者)について」

これは、前々回の「異人たち」(#727)につけるべきおまけでしたが、わたしの情報不足、思料不足で、2回次もちこししました。なので、これとまったくの同文を、「異人たち」のおまけとして、そちらにも貼ります。

以下、参考書の読書タイミング(初読と2度目の読了と)で時間が前後しています。またクィアをほかの性的少数者ととくに区別せずに書きます。

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“クィア”、このシンプルな単語をじぶんでネットで調べてもさっぱりわからないので、長編の解説書を買って、一日かけて(かなりの速読で)読みました(じっさいにはいま、かなり丹念に2度目を読み終えました)。そのみちの専門家ふたりが対話をしたコンテンツを文章におこした、すてきな本です。肝心の書名ですが、(クィアの立ち位置から発想しておられて)ややトリッキーなので、この拙文に目をとおしてくださるときのバイアスを除くために、それはこのおまけの末尾にしるします。

議論がかなりむずかしい内容(わたしの初見の理解度はせいぜい60%くらいです(二度目で80%くらいです))を、ふたりのキャッチボールで、わかりやすい対話として説き起こす。この本を読み進むにつれて、なるほどあれはこういうことなのかと納得します。クィアの概念や意味合いは かなり流動的でダイナミックであることが、すくなくともわかりました。またクィアにかぎらず、本書はLGBTQ+をオールラウンドにカバーしています。時間のあるときにゆっくり読み返します(と初見時に書きましたが、たぶん3度目は当面読みません)。

以下、この書物がおしえてくれた思惟を基本的になぞり また引用しますが(と考えましたが、厳密に考えるとそれは著作権法に抵触するのでやめます。わたしは遵法意識がたかいのです)、わたしの思考があるならば、そう明示して記そうと思います。では、

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冒頭のわたしなりの総括

性にかぎらず、だれしもが個性や特質をもっています。たとえば、わたしのインスタグラムには、自己紹介として、アタマにこう意図的に書いています。

興味分野:地図全般、山登り、旅、夏目漱石、ドライブ、コーヒー、映画、カラオケ、読書、美術館、落語、高層建築、しりとり、花、フェミニズム、ポーカー、瞑想。

と。これは知らない人となかよくなるための話題を思い出すための、カンニングペーパーでもあります。どれについてもある程度の時間(すくなくとも1時間)は はなしをすることができる。わたしとは、こういう人間ですよと熱心に語れる。瞑想は冗談ですが。

つまりひとには誰も得手と不得手(ふえて)があって、おたがいが得手をほめ合って、不得手をおぎないあって、楽しくなかよく暮らしていくことが、世の理想ですね。

性的なことも同様なところがあって、おんなの得手不得手とおとこのそれをうまく両立し活用することが社会で必要だ。そして男女(女男)の単純な二分法(そこには害があると よくわかりました)に収まらない性のありかたを もつひとも多い。そういうセクシュアル・マイノリティ(性的少数者)の位置を占めるひとは、マジョリティから圧迫されるリスク(内容が性という個人的な要素であるだけに、さらに複雑なリスク ときに致命的なリスク)をはらんでいます。性的少数者のなかで多数を占めるLGBTに対して、さらに少数者(なのかな?)であるクィアに対する理解のしにくさを自覚し、おたがい傷つけあわずに、尊重し合える関係をきずける社会にしていきたい。そういう期待をもちます。

男女差別の回でも強調しましたが、ただしい教育(家庭なり学校なり)を適切な年令で(重層的に)ほどこすことがいちばん効果的で効率的のように思います。あとは、常識をはたらかせることが もちろん不可欠ですね。

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“クィア”は、手元の英和大辞典をみると、変な、風変わりな、などの形容意味が上位ランクとして挙げられています。そして語源の併記として、16世紀ドイツ語のqueer(中心から外れた)であるとしています。つまりマジョリティから(性全体、あるいはLGBTからも)隔絶されている、ということが語感にあるのでしょうか。

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ここで しばらく参考書籍の読み取り

著者たちは、クィアについて、こういうイメージをもつといいます。「世の中に背を向ける」「仲間に入れてもらおうとしない」「体制から外れている」などだと。

基礎の知識

LGBTQ+の意。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィアあるいはクェスチョニング(自身の性や、性的に惹かれる他者の性について定めないあり方)。語順は最初はGLBTだったが、男性中心主義からの脱却をめざして、LG~と逆転させた。多種のマイノリティのアイデンティティを総称したながい略称として、LGBTQQ-AAPPO2Sなどがあるが、意味は省略。QQはクェスチョニングとクィアです。

クィアはLGBTの4種類からは離れた、「その他」という立ち位置のようです。しかし、ひとつの単語に収められたくない気持ちもある。たとえばLGBTQカテゴリー間の移行(トランジション)は50才代でもある。LやGだったひとがTになることもある。性はグラデーションで明確な隔壁はない。100%のおんなや100%の男はいない。それは単純なスペクトラム構成ではなく、むしろベクトルと考えるのが近い。男女二元論は、社会的な観点からもつねにリスクをともなう。そういう変化を、クィアというくくりは受容しやすいかもしれないといいます。

「クィアって、特定の人々のことを指すときもあるし、人の性質を指すこともあるし、関係性のあり方や性質を指すこともある」「あるいは、生き方や態度みたいなものを指したりもします。」

抜き書き(著作権法違反です)

・つよい差別にたいする意図的な反抗心を内包している。好戦的だ。
・クィアの当事者でないと、どう使ってよいか判断するのはむずかしい。
・「クィア」のことばを使ってでしかいいようがない経験がある。
・アイデンティティの揺らぎ(一貫しない、定まらない)を軽視しない。流動的になる。
・ふつうとは異なるひとびと(じぶん)が、ここにいる感覚。
・素朴なもの、きれいな部分だけに、なり下がりたくない。
・特定のパートナー(たとえば同性)と「ながく続くのが、まともな大人」では決してない。

LGBTからはずれる例としては、Xジェンダーあるいはノンバイナリー「男でも女でもない性だと自認している人」。アセクシャル・アロマンティック「恋愛感情や性的な欲望を他人に対して抱かないひと」などがあります。

重要な指摘
M氏:同性愛に関する研究の中で、カミングアウトの研究は一大ジャンル。
「みんなにオープンにしているか、全員に対して隠しているか」という対立ではとらえられない、複雑さ、繊細さがある。
N氏:究極の理想は、(性を)趣味程度の感覚でいえること。音楽はこれが好きです、くらいのレベルでセクシャリティについて言えて、そこに差別もない、というのが理想です。

マジョリティのひとが性的マイノリティのひとを「受け容れる」というのは傲慢であるが、)「受け容れる」の代わりのことばがなくてむずかしい。たとえば「当たり前のものとしてみなす」みたいな。

ここで思い出しましたが、用字として正しいのは、
性的指向(sexual orientation)、
ですね。つまりじぶんが(じぶんの恋愛感情や性的欲望が)どちら(どの性別に)を向いているのかということ。フィルマの投稿でよく見られる(ときに意図的な)誤りが、「性的志向」、「性的嗜好」あたりの用字です。わたしも気をつけないと、指向を見失なうな。

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わたしの雑考
(これらは少数意見ですよ。もし気をわるくされたらすみません)

①セクシャルマイノリティのひとが、自身の「性のギャップ」に ふかく悩むのは、それが幼年あるいは若年時の「気づき」によってもたらされるものであり、精神的な未完成さがその認知の激震に耐えることが難しいことによるのかもしれない。あるいは同年代の「マジョリティ」の若年ゆえの残酷さ(いじめなどの攻撃)が関係しているかもしれない。

②書物に仕上げる、研究者の姿勢に根ざすものだと思いますが、基本的にマジョリティ(世間)に対して不必要だと思えるまでの好戦姿勢、防御姿勢が そこかしこで感じられました。もうすこしゆとりのある、少数者目線ゆえの広い視野の提示がほしかったです。すごくいやないい方をすると「狭量」ですね。加えて悲しいのは、次世代(子の世代、その子の世代)を思いやることができずにいる。そこは自己本位だと感じました。

③被差別側の立場に置かれているのでしかたがないと思いますが、差別に対する感覚が研ぎすまされ過ぎていないでしょうか? じぶんで研いだ刃を、当のじぶんの首に突きつけているように見えなくもない。マジョリティ(けっして差別側という意味ではありません)の不用意な意見かもしれませんが。

④このふたりが視線をむける第一が じぶんの「不幸」であって、それに対抗する「努力」で精一杯になっている。じぶんの「不幸」をくまなく定義することに 躍起になってしまっている。したがい ほんとうに大切なほうの「幸福」に思いをいたす余力に欠ける。ものごとの優先順位を まったく誤っているように見える。

さいごの総括:

スタート地点からゴール地点までの、わたしの一貫した考え。

「ひとに迷惑をかけなかったら、まあなんだっていいんじゃないんですか?」

性にせよ遊びにせよ、このポリシーはわたしの人生のおおきな心棒ですね。かつ、わたしは、ひとから多少の迷惑をかけられても、ある程度そのひとを支えてあげられる度量があるようにいつも努めます。これはわたしの理想ですね。


(参考文献)

「慣れろ、おちょくれ、踏み外せ
性と身体をめぐるクィアな対話」
2023年7月、朝日出版社
著者 森山至貴(早稲田大学准教授)、能町みね子(文筆家・イラストレーター)
1,980円、Kindleは100円引きです
筆者たちは、ゲイとトランスジェンダーだとcome outしておられます。
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