Foufou

異人たちとの夏のFoufouのレビュー・感想・評価

異人たちとの夏(1988年製作の映画)
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山田太一の訃報に接したとき、『ふぞろいの林檎たち』を推す派と、『異人たちとの夏』を推す派に分かれたのを思い出し、そういえば後者は読んでもいないし見てもいないなと。

アマプラで突然レコメンドきて、しかも100円。

大林宣彦なんですね。
役者は、風間杜夫に、秋吉久美子、片岡鶴太郎に、名取裕子……って、みんな同世代なのかと今更驚きました。

若くて尖っていたときにこれを見たら、冒頭の男二人のやりとりと、その直後の男と女のやりとりとに、「けっ」となったかもしれない。しかし今となっては山田太一の自己投影であろう脚本家演じる風間杜夫の芝居から、作家自身の円熟期の作品であるのがひしひしと伝わってくる。つい最近別れた妻に交際を申し込もうと思うと直接告げにくるプロデューサーの律儀さもさることながら、ここであまり風間杜夫が精神的な打撃を受けるふうでないのは、ほかでもない売れっ子だからである。映画全体も売れっ子の自嘲であると同時に自重せよとの戒めであるかのようである。さて、そういう作品に今自分が堪えられるのかという問題がにわかに浮上する。

ほとんど純文学のような展開に前半はなずんで、しみじみ自分も歳を取ったと慨嘆されました。でも、若かりし日の父と母に会いたいとはちょっと思わないかな。いや、12歳で両親をなくせばそれなりの思慕の念も後々残るか……なんて感慨に耽るわけです。

ところがどうして、名取裕子演じる藤野桂によって一気に通俗路線へ。やはり売れっ子の自重映画であり、少なくとも妻との別れに対する慚愧の映画とは感じられない。これが風間杜夫が落ち目の脚本家という設定だったらどうだったろうとつい考えてしまう。

あえてチープにしているのか、当時の技術的限界を示しているのか、今見るとちょっとよくわからなくなるような、大林宣彦節の演出が後半炸裂いたします。『HOUSE』の人ですからね、いまさら驚きませんが、ここまで真顔で見てきた自分としてはバツが悪いといいますか……。

片岡鶴太郎の演技ですか。ああいうのを上手いというのかな。少々くどい? 自分に酔い過ぎ? いや、でもああいう江戸っ子もいそう、というところで収めるか。カッコつけても薄っぺらなところとか。

風間杜夫も片岡鶴太郎も小児のような肉体なんですね。いや、四十男の肉体なんて、放っておいたらそんなものかもしれません。ベッドシーンがちょっと気になりまして。

あるいは八十年代ならではの肉体性?

なんて。
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